memories

ホウズキ

田舎の近所にお寺があって、
そのそばの小さな墓地にホウズキが生えていた。
実が赤くなると、それを口に含み、
中身を上手に出し、音を鳴らす人がいた。

わたしも真似したかった。
でも、どうやったらいいのかわからなかった。

引っ込み思案だったから
尋ねてみることもしなかった。

だけど、大きくなったら、大人になったら
音が出せるようになる。

そう思っていたけれど、
いつの間にか周りにそんな遊びをする人はいなくなり、
わたしは大人になってもホウズキを鳴らすことができない。

けれど、ホウズキを見ると、
今でも幼い日がよみがえってくる。

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墓地と桜と

桜の木の下で食べ物や飲み物を広げてみんなで楽しむという、
いわゆる‘お花見’は3、4回しかしたことがない。

そういえば、田舎には‘お花見’をする習慣はなかったし、
学校以外では桜の木はあまり見かけなかった。
実の食べられる梅や柿と違って実用的でないからだろうか。
学校には桜の木があったが、長野県では桜は入学の時期には咲かないから、
桜の花を感慨深く見上げることもなかった。

だが、一本の桜の木のことだけ覚えている。

それは実家のそばの墓地にあった桜だ(今はない)

公園というものがなかったからだろうか、
わたしたちはその小さな墓地を格好の遊び場にしていた。
誰のお墓だったか、石段のついているお墓が大好きで上ったり飛び降りたり・・。

わたしの田舎では、墓地は田んぼや畑のそばに点々と存在していて
暮らしの中に溶け込んでいた。
だからだろうか、わたしたちは墓地を特別なものとも怖いものとも思わなかったし、
大人も、子どもが墓地で遊んでいるのを罰当たりと咎めたりもしなかった。

わたしたちが遊び場にしていた墓地だけでなく他の墓地にも
桜は植えられていたような気がする。

墓地と桜はだからわたしの思い出の中では密接につながっている。



昨日、仕事帰りに霊園に寄ってみた。
広い霊園のあちこちに桜が咲き誇り、花びらが舞っていた。

わ?っと華やかに咲いてはらはらと潔く散ってゆく桜は、墓地にとてもよく似合う。


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クリスマス

サンタさんがまだ日本中の子どもたちには知られていなかった頃、
サンタさんはわが家には来てくれていた。

クリスマスがイエス・キリストのお誕生を祝う日であることは、小学生の頃から知っていた。
たぶん、子どもの頃教会に行っていたことのある母が教えてくれたのだろう。

クリスマスは、年に一度ケーキを食べられる日でもあった。
近くにケーキ屋さんもパン屋さんもなかった昔々の話だ。
いつかお腹いっぱいケーキを食べてみたいというのが夢だった、そういえばバナナも(笑)

クリスマスツリーは、父がどこかから調達してきてくれた。
ある年は本物のもみの木で、クリスマスが終わってから庭の隅に植えられたそれは
しっかりと根を張り、ぐんぐん大きくなった。

イエスさまのことをわたしはまだ信じていなかったけれど、
クリスマスは厳かで静かな時だった。

天使が言ったというこの言葉が好きだった。


「いと高き所に、栄光が、神にあるように。 
 地の上に、平和が、
 御心にかなう人々にあるように。」



結婚し子どもが生まれ、わたしは子どもたちと一緒にワクワクドキドキのクリスマスを楽しんだ。


そして今・・・

わたしは子どもたちと教会でイヴを過ごす。
25日の夜は、これは結婚した当初からだったと思うが、
大学時代に夫と通っていたバイブルクラス風に
和洋折衷の料理で家族でクリスマスをお祝いする。

もうドキドキワクワクはないけれど、クリスマスは特別な日。
闇の中に灯る、決して消えない光。

生活の場に

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夏に撮った写真です(今はもう稲刈りが終わっているそうです)


稲の向こうに見えるのが母の眠る墓地。
この墓地でわたしは子どもの頃よく遊びました。
夜、墓地のそばを通ってお使いに行くこともありましたが
不思議と怖いと思ったことはありません。

死は誰にでも必ず訪れるもの。
自分の思い通りにはならない自然の中に生きる農家の人たちは
そのことを当たり前に受け入れていたような気がします。

義父が亡くなったとき、わたしたちは実家のそばにお墓をつくりました。
畑の片隅にある小さな墓地に。

そこからは山々が見え、近くに川が流れています。
夏に帰省した時、子どもたちはその川で釣りをしました。


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  チューリップ オススメブログ チューリップ

★ 「おしゃれ手紙」 by 天地はるなさん

★ 「ぼくらはみんな太陽だ!」 by AYAさん


新企画「オススメブログ」の登場です。
昨日はるなさんのブログを見つけ、ひらめきました(笑)
はるなさん、まねっこでごめんなさい。

泰山木

小さなころ身近にあった花はいつになっても懐かしい。
思い出を連れてきてくれるからだろうか。
風景のこともあるし、匂いや空気のこともある。
そのときの感情がふわっと蘇ることもある。

実家の庭にあった泰山木の純白な花とその芳香は忘れられない。
花が咲くと父は木に登り、花や蕾のついた枝を落としてくれた。
よく水を上げるように母が枝を火であぶり、新聞紙に包む。
それを抱えて学校に持っていくのが照れくさく、誇らしかった。


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喜びとは、あなたが奏でる内なる調べです。


by サネヤ・ロウマン

ドクダミ


ドクダミ

                         まど みちお


ここに くると
昼ひなか
ひんやりと ランプがともっている

わたしは いきを ころす
どこかに うごめく
夜のけはいに
からだじゅうを 耳にして

なにかが おこっているのに
それが
いよいよ 大きくなっているのに
わたしだけが
気づかずにいるのではないかと・・・



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この詩を知ってから、わたしにとって「嫌な匂いのする雑草」
にすぎなかったドクダミが特別なものに思えるようになりました。


ドクダミといえば・・・

中学の頃ニキビが酷く、悩んでいたわたしに
母は裏庭にたくさん生えていたドクダミを煎じて飲ませてくれていました。
その効果はあったのかなかったのか・・・
ニキビというものは、時期が来なければ治らないものだったような気がします。


ドクダミがあちこちに群れて咲く季節。
たまには立ち止まってドクダミの声を聴いてみましょうか。

ぬくもりの記憶

わたしのぬくもりの記憶はなんだろうか?と振り返ってみると、
それはやはり幼い頃の父の思い出なのです。

そして思い起こすのは、たまに訪ねていくときにわたしを迎えてくれる
伯母たちの朗らかな声と笑顔、手放しの歓迎。

  「よく来た、よく来た、さあ、おあがり!」


祖父母と母はわたしにとって当たり前にそこにいてくれる存在でした。
3人が目の前からいなくなるまで。


ジャスパーさんの「死にゆく手に生かされて」のことを考えるともなしに考えていて
思い浮かんできたことがあります。それは祖父のことです。

亡くなる数ヶ月前まで元気に田畑で働いていた祖父は、
突然病に臥せり、‘お座敷’で寝ていました。

ある夜、わたしが祖父の枕元に行くと、祖父は何も言わず
わたしの顔をじーっと見つめるのです。

翌朝、起きてきたわたしに父が言いました。
  
  「おじいちゃん、仏さんになっちゃったよ。」


祖父は自分の死が近いことを知っていたのでしょう。
そして最期にわたしを見てくれたのです。

わたしを丸ごと包んでくれた祖父の慈しみの眼差しを、わたしは忘れません。

楽しむこと

昨日の続き。

子どもの頃、学校行事が好きでなかったいちばんの原因は
生来面倒くさがり屋なためだと思う。

昔の農家に育ったから子どもの頃は農作業の手伝いもさせられたし
外で遊ぶことが多かったが、今の時代に育っていたら
ほとんど家の中で過ごしていたことだろう。

学校行事が好きでなかったのには、他の理由もある。
団体行動が苦手なため、そして運動能力が著しく劣っているためだ。
(水泳とスケートだけ好きだったのは
 ひとりでできるのが性に合っていたのだろう)

運動も勉強もできる人は憧れだった。
けれども、負けん気のないわたしは、努力することもしなかった。

そんなだったから、クラスが学校行事でどんなに盛り上がっていっても
わたしは冷めていた。わたしの態度が気に障ったのか、
高校1年の時の担任は言った。

「(行事が好きでないなんて)
 ○○(わたしの旧姓)は何が楽しみで生きてるんだ?」

大嫌いな担任だったから、わたしは何も答えなかったと思う。
けれどもその言葉は心に落ちて留まった。
記憶力の乏しいわたしが覚えているのだ。


行事が楽しみでなくても、集団の中でうまくやれなくても、
楽しみはある。
わたしにはわたしの世界があった。
本の中にいれば、それだけでわたしはしあわせだった。


その時の先生の言葉に今も反発を感じながら
でも、と思う。もっと高校生活を楽しめたなら、
わたしは違う人生を送っていたかもしれない、と。

勉強と本の中にわたしは大事なものを見失っていた。


やはり学校生活を楽しめない末っ子を見ていて思う。

  わかるけど、楽しむことも大事だよ。
  折角の学校行事、存分に楽しんで。
  友だちと思い切り話をして。
  今の時は二度と帰ってこないのだから。

クリスマスはごちゃ混ぜ料理

我が家のクリスマスは12月25日。

豪華な料理はつくれませんが、ゴチャゴチャ、
品数だけ多く並べます。

今年はサンドイッチ、ナポリタン、グラタン、
鶏肉、チョリソー、フルーツポンチ、クッキー、
頂き物のハーブ味のハムとお多福豆・・・。

シャンパンで乾杯してからそれぞれ好きなものをお皿にとって食べます。


クリスマスにこんな料理をつくるのには訳があります。
クリスマスになると、なぜか
大学時代に毎週通っていたバイブルクラスでの食事を思い出すから
なのです。

「忘れられない人」に書いた日系二世の先生は
わたしの通う大学にも来てくださっていましたが、
毎週土曜日に自宅を開放してバイブルクラスをしてくださっていたのです。

バイブルクラスはもちろん、その後の食事も、とても楽しみでした。
食卓には和洋折衷のいろいろなメニューが並びました。
自炊をする学生の栄養を考ての献立でした。

「取って回してくださいね」

先生の言葉がよみがえります。
クリスマスも何度も先生のお宅で一緒に祝いました。

温かい思い出です。

‘のんびりせっかち’


「世話するもの」がいると、
しっかりするものだなぁ。

by 糸井重里



自分が役に立っている、という思いが(思い込みであっても)生き甲斐になったりもする。
けれども、誰かを生き甲斐にしてはいけない、と思う。





帽子


「あ、悪いけど、生協の箱の上に、ここにあるの、置いといて。
 わかってる? 隣りの階段の・・・」

まだ説明を続けようとする私に、寝ぼけ眼の長男が言う。

「(後は)いいから! もう53分だよ。大丈夫なの?」

「ん(と思う)。行ってきます!」


いつもは、これと反対だ。

出かける直前、慌てて何かを探している長男を
にやにやと、あるいは冷めた顔で私が見ている。

そして
「急いで行って事故に遭わないでね
 行ってらっしゃい」と見送る。

「私の子だ・・・」とため息をつきながら。


子どもの頃から私はのんびりだった。

出かける間際までぼーっとゆっくりしていて
さあ、出かけなくちゃ、という時になって慌てる。
「あと○○分あるから大丈夫」
と思っているのだが、‘○○分’の読みが甘いのだ。


思い出話。

高校の頃、朝、家を出るといつも走っていた。
道路に沿って線路があり、
西の方から私の乗る電車が近づいて来るのが田圃の向こうに見えるのだ。

電車の方でも走っている私が見えるらしく、車掌さんは
私が駆け込んでくるのを度々待っていてくれた。
(当時、そうやって駆け込む乗客は、私ばかりではなかった。
 もしかしたら今も)

他の乗客たちには迷惑な話だっただろうし、
車掌さんも「またか」と思っていただろうが、
冷たい視線を感じたことはない。

私が鈍かっただけなのかもしれないが。


年中、母に言われていた。

「あつこは、いつも‘のんびりせっかち’なんだから」

だが、同じようなことを何度繰り返しても、懲りない私だった。


今は、私ののんびりのために人に迷惑をかけないように気をつけてはいる。
でも油断していると、すぐに元通り。


そういう私をずっと見てきた次男は、
大事なことは何でも自分で早め早めに片付ける。
しかし長男は・・・

と書いている途中でタイミングよく(?)長男からメール。

「結局、朝飯食べる時間なかった(*_*)!・・・」

今日締め切りのレポートがぎりぎりまでかかったのだろう。

人のこと、大丈夫?と心配してる場合じゃないじゃん!!!(笑)