February 2007

コブシ

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団地のコブシの花が咲いたよ。




「はじめての町」

はじめての町

                    茨木のり子


はじめての町に入ってゆくとき
わたしの心はかすかにときめく
そば屋があって
すし屋があって
デニムのズボンがぶらさがり
砂ぼこりがあって
自転車がのりすてられてあって
変わりばえしない町
それでもわたしは十分ときめく

見なれぬ山が迫っていて
見なれぬ川が流れていて
いくつかの伝説が眠っている
わたしはすぐに見つけてしまう
その町のほくろを
その町の秘密を
その町の悲鳴を

はじめての町に入ってゆくとき
わたしはポケットに手を入れて
風来坊のように歩く
たとえ用事でやってきてもさ

お天気の日なら
町の空には
きれいないろの淡い風船が漂う
その町の人たちは気づかないけれど
はじめてやってきたわたしにはよく見える
なぜって あれは
その町に生れ その町に育ち けれど
遠くで死ななければならなかった者たちの
魂なのだ
そそくさと流れていったのは
遠くに嫁いだ女のひとりが
ふるさとをなつかしむあまり
遊びにやってきたのだ
魂だけで うかうかと

そうしてわたしは好きになる
日本のささやかな町たちを
水のきれいな町 ちゃちな町
とろろ汁のおいしい町 がんこな町



『茨木のり子詩集 見えない配達夫』(童話屋)より




コメントの画像認証のこと

以前アダルト系のコメントが続いたため、このブログでは画像認証を使っていたのですが、
画像認証の英数字が読み取れずなかなかコメントできないと数人から言われました。
(実はわたしもCとGが上手く区別できず、何度もはじかれていたのです)

他にもそういう方がおられたかもしれませんね。ご迷惑をかけてすみませんでした。
(そうでなくても、スキンを換えたせいか、なんだか重たくなった気がするのに)
たぶんアダルト系のコメントについてはもう大丈夫だと思うので画像認証は外しました。




* 気がついたらここの記事の数、1000を超えていました。
  ここに書き始めてからもうすぐ3年。
  「すごい?」長男に言ったら「ただの馬鹿だ」って(笑)
  記念すべき(?)1000個目の記事は1/22の「冬桜」でした。




再び梅林にて


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雑記

今更ながら思ったこと。


先日他の人に「聴いて、聴いて」とはならないと書いたが、
わたしにだって聴いてほしいことはある。
だが、身近に、わたしの聴いてほしいことを聴いてくれる人は見当たらないのだ。

だからネットに書いている。

今日見たことやいま思っていること・感じていることを誰かに聴いてほしくて書いている。
わたしの感動や心に響いた言葉を誰かに伝えたくて書いている。
わたしはこう思うんだけど、あなたはどう思う? 誰かに訊きたくて書いている。


わたしの声が届いたらお返事ください。


世界の始め


神はお造りになったすべてのものを見られた。

見よ。それは非常に良かった。

(聖書:創世記1章より)


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長女的気質?

先日、友だちが言った。

子育てする上で周りの人たちと価値観が違うとき自分はもっと揺れ動く、
あんまり他の人が違うと、自分の方が間違っているんじゃないかと思ったりする、
だからいろんな人(自分に近い人)の意見が聴きたくなる、と。

そういえば、友だちは前にもそんなことを言っていたっけ。

友だちが以前住んでいたのは、高学歴の人ばかりが住む分譲の団地で、
家族ぐるみでお付き合いしていたのも、そういう人たちだった。
100%お弁当持参・集団登降園・手作り推奨という今時珍しい幼稚園を選び
あれこれ助け合いながら一緒に子育てをしていた仲間だった。
だから子育てについての考え方は似ていると思っていたのだが、
子どもの高校受験の時、自分が他の人たちとは随分違っていることに気づき、
友だちは愕然としたという。


子どもが親の期待通りに‘できる’(成績の良い)子で、素直に親の言うことを聞く子だったら、
他の子が‘できない’のは、その親の努力が足りないためだとか
やり方(勉強のさせ方・仕向け方・導き方等)が悪いだめだと思うものなのだろうか?
良い成績をとれない子どもやその親の気持ちを思い遣れないものなのだろうか?


どうして(あなたは)動じないの?と友だちに訊かれて答えた。

「だって、自分がいいなぁと思う人や尊敬する人はみんな同じことを言うし、夫もそうだから」

「うちもお父さんはそうなんだけど・・あの人はそういう人でしょと言うけど
 あんまり違う人たち(お母さんたち)に囲まれていると・・」


価値観が違う人が悪いと思っているわけではなく、
人は人、自分は自分、みんな違うのは当然だから
わたしはわたしのやり方でやるわ、とわたしは思っているようだ。


友だちは誰かに何かを言われて傷ついたりムシャクシャしたりすると
自分のうちで収めることができず、誰かに聴いてもらいたくなる、という。

「わたしは自分でなんとかするよ、だって誰かに言ってもしょうがないじゃん」

そう言うと、

「ああ、長女だから自信があるのよ、お父さん(友だちの旦那さん)も長男だからそんな感じ」

と友だちは言う。


そう、なんだろうか???


***


この疑問が先日の【質問】に結びついたのでした。
わたしは、何かあると家族にちょっと愚痴ったりはするけれど、どこかに書き散らしたりもするけど(笑)
「聴いて、聴いて」とはならないのです。
‘何か’が過ぎ去れば話せるかもしれないけれど、渦中にいる時はひたすら内向するのです。

これは、もしかしたら、長女的気質というより男脳が強いから?





公園にて


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【質問】

「嫌なことがあったとき、あなたはどうしますか。」





初桜

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団地の早咲きの桜が咲いた!

遊歩道で

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『日記の魔力』

図書館をウロウロしていたら『日記の魔力』という題名が目に飛び込んできた。
無意識のうちに三日坊主の日記のことが気にかかっていたのだと思う。

How toものみたいな感じだけれど、とても面白い本だった。
なので、ちょっと抜書き。

***

私は人が生きるうえで「問い」をもつことはとても重要なことだと思っている。
人間の一生は「問い」のレベルで決まるといってもいい。
だが、こうした問いはすぐに答えが出るものばかりではない。
そんなときは「答え」が見つかるまで、「問い」を別の場所に保管しておくことが必要となる。
その場所を私は「問いのプール」と呼んでいる。

* 問いのプール=「意識」としての問いの保管場所

***

何をしたいのかわからないのは、自分が何者だかわからないからだ。
自分が何者かわかれば、おのずとやりたいこともわかる。
では、どうしたら自分が何者かわかるのか。
そのもっともよい方法は、自分の行動を客観的に観察することだ。
行動はその人の心に根差している。
・・・自分の行動がわかれば、自分が何者かもわかる。
だからこそ、「行動日記」をつけることで、真実の自分を知ることができるのだ。

***

否定から新たなものが生まれ、発展することなど、絶対にありえない。
すべての物事は「肯定」から始まるのだ。

***

自分の中から出てきた「答え」でなければ、それは他人の意見に過ぎない。
答えは自分の中にあるのだ。
「問いのプール」を深いところまで突き詰めていけば、どんな問いの答えもある。
それは、すべての人の「問いのプール」が、奥深いところでつながっているからだ。
・・・だが、おたがいに「無限」の部分によってつながっているとはいえ、何もしなければ、
そこから情報を引き出すことはできない。
両者をつなぐためには、自らのプールを掘り下げていくことが必要なのだ。

***

自覚は英語では「リアライズ(realize)」という。
このリアライズという言葉には、「自覚する」「わかる」という言葉のほかに
「現実化する」という意味もある。
つまり、気づいたり、悟るというのは、目をつぶり瞑想するなかで至る境地ではなく、
リアルな面を徹底的に追及していくことで到達するものだということだ。
自分の現実を徹底的に追及していくことが悟りに至る道であるから、
現実を具体的に記録していく日記によって、「悟る」ということにつながるのである。

表三郎著『日記の魔力』(サンマーク出版)より

***

「問いのプールがつながっている」というのがとても興味深かった。
他の人の文章を読んでいて「ああ、そうだったのか」と深く頷くことが時々あるが、
それはその人の「問いのプール」から「答えが流れてきた」ということなのかもしれない。


行動日記、つけてみようかな、変わりばえのしない毎日だけれど。

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「木」 (谷川俊太郎さんの詩)



                   谷川俊太郎



木がそこに立っていることができるのは
木が木であってしかも
何であるかよく分からないためだ




木を木と呼ばないと
私は木すら書けない
木を木と呼んでしまうと
私は木しか書けない




でも木は
いつも木という言葉以上のものだ
或る朝私がほんとうに木に触れたことは
永遠の謎なのだ




木を見ると
木はその梢で私に空をさし示す
木を見ると
木はその落葉で私に大地を教える
木を見ると
木から世界がほぐれてくる




木は伐られる
木は削られる
木は刻まれる
木は塗られる
人間の手が触れれば触れるほど
木はかたくなに木になってゆく




人々はいくつものちがった名を木に与え
それなのに
木はひとつも言葉をもっていない
けれど木が微風にさやぐ時
国々で
人々はただひとつの音に耳をすます
ただひとつの世界に耳をすます


谷川俊太郎著『うつむく青年』(株式会社サンリオ)より


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銀杏

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団地の片隅に

固定された

銀杏

青空に向かって

のびのび

ネットに書くこと

春樹さんのメルマガから「言葉には何ができますか」という質問が送られてきて
考えるともなく考えていた。

言葉には何ができるか?
ネットに書くことに何の意味があるのか?
言葉だけのつながりの人たちのために何ができるのか?

意味など考えず来てくれる人たちのことも考えずにただ書けたらどんなに楽だろう。

わたしはこれまで意味を考えずにネットに書くことはできなかった。
その時々で‘意味’は変わってきたけれど、自分なりの意味づけをしながら書いてきた。
けれども、今まで‘ネットに書く理由’と考えてきたものは
ほとんどもうなくなってしまっていることに気づいた、ごく最近のことだ。


PCをするようになってから、さまざまな人に会ってきた。
ブログが流行り始めてからは特に。
‘お気に入り’には何十ものサイトが入っている。
毎朝の‘巡回’のほかに暇ができるとサイト巡りをするが、どこに行ってもため息が出る。

すごい。素敵。まるで敵わない。

そしてわたしはまた自分の書く意味がわからなくなる。
ただの主婦の、何もかも中途半端な、知識も教養も経験も文章力もない、
ないもの尽くしのわたしが何を書こうとするのか。


口下手なので話し言葉で自分を表現することはできないから
自分のために書く必要はあるけれど、
ただ自分のためだけならば、何もネットに書くことはないのだ。


考えても仕方ないことをグダグダと考えているわたしに
ある友だちが言ってくれた。


書くことに意味を持たせようとしたり、セーブしてしまうと、
かえってきりもみ状態になったりするような気がする、
ネットは、心に日々降り積もる雪を降ろす雪かきのようなもの、
その雪でたまに誰かが雪だるまとか作ってくれたら嬉しい、と。


ああ、そうなのだ、わたしは雪かきをしているのだ、
自分のために、そして雪だるまをつくりに来てくれる人のために
わたしは書いていていいのかもしれない。


わたしのことだ、きっとまた‘意味’を考えてしまうだろう、
でもしばらくは、「書きたい時に書きたいところに好きなように書く」ということを続けてみよう。



・・・肝心の春樹さんの質問の答えがまだだった。
長くなりすぎるので、答えは、そのうち「言葉の花かご」にでも。



*** 蛇足 ***


お正月に日記帳を買った。が、見事に三日坊主だ。
ネットになら毎日でも書ける日記が、ノートには書けない。
見に来てくれる人がいるから書ける。
じっと聴いてくれる人や、時々話しかけてくれる人がいるから書ける。

だからあなたに「ありがとう」。

愛の論理

持ち物が少なければ少ないほど、
多くを与えることができます。
矛盾としかおもえないでしょう。
でもこれが愛の論理なのですよ。

by マザー・テレサ


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好き嫌いでなく

先日書いた質問の答えを考えていて思っていた。
好きなところはどこか、嫌いなところはどこかという以前に、
わたし、やっぱり自分が好きじゃないな、嫌いっていう訳でもないけど。

もし自分と同じ人がいたら、友だちになりたいとは思わないだろう。

美人でもないし(見ていて楽しくない)、おしゃべりは下手だし、物を知らなさすぎるし、クソ真面目だし、
興味あることが少ないから一緒にいても退屈だろうし、訳わかんない、変な奴だろうし。

他にいくらでも候補はいたはずなのに、わたしをパートナーに選んだ夫の気が知れない(笑)
(だから、夫の知り合いが「奥さんに会いたい」と言っていると聞くと、とても当惑する
 「会わない方がいいと思うわ」)

でも、好きでないにしても、自分と別れるわけにはいかない、一生付き合っていかなくてはならない。
自分がいちばん見えていないのは自分かもしれないけれど、
自分のいちばんの理解者は自分なのだろうし、
わたしには、わたしの人生をより良いものにする責任がある。
わたしには、わたしという人間が人生を全うするのを見守っていく責任がある。

仕方ないな、一生面倒見るよ。相当厄介な、手の焼ける奴だけど。

【質問】

「自分の好きなところと嫌いなところを教えてください」



***


「言葉の花かご」に書いている質問を週一くらいのペースでこちらにも書こうと思います。
一緒に考えてみませんか。

あなたの答え(コメント)、お待ちしています。真面目なのでもユーモラスなのでもなんでも。
(答えはこちらでも「言葉の花かご」でも、書きやすい方に書いてね)

男の子のお母さん

「また言われたよ、3人男の子がいるように見えないって」

夫に報告する。

「私も言われるよ。この間も・・」

「それは、男の子のお父さんに見えないっていうことじゃなくて、
 そんなに大きい子が3人もいるように見えないっていう話でしょ」

「うん」

末っ子と食事をしてお勘定をしようとすると、「別々ですか」と訊かれちゃうような人だ。
昨日も「永遠の18歳じゃないですか」と言われたという。

「18歳はないだろう、俺だってもう18には見られないのに」と長男。

「要するに、若く見えるってことよ」

異論を挟む人はいないだろう。


・・・話がそれた。

「男の子3人のお母さんには見えない」って、褒め言葉なのだろうか?

子どもが生まれてから知り合った友だちはほとんど子どもつながりなので、
男の子の(男の子もいる)お母さんが圧倒的に多い。
それも、男の子が2人いる人、3人いる人が。
見るからに「男の子のお母さん」という人は珍しいが、
話していると、ああ、男の子のお母さんだな、と思う。

女の子のいるお母さんは、ある意味、家の中で満ち足りている、
でも男の子だけしかいないお母さんは、家以外の場所に何かを探している。

以前からわたしはそんな気がしているのだ。違うかな?


ネットで知り合う人も、男の子の親とか男の子もいる人とかが多いような。
何かが引き合うのだろうか。不思議。

つかみどころがない

「3人の(子どもの)中で学校でいちばん苦労しなかったのは
 君でしょう」

何かの話の途中に末っ子に言ってみる。

「母さん、何も知らないくせに」

「それはそうだけど、いじめられたり、学校で問題があって
 休んだりはしなかったでしょ」

「まあ・・」

会話を耳に挟んだ夫が言う、

「学校時代いちばん苦労したのは私だ、
 入院して修学旅行に行けなかったり
 受験できなかったり・・」

「父さん、‘3人’に混じろうとしてるよ」

末っ子と顔を見合わせて笑う。

「・・だけど、そういう意味で言うなら、
 学校時代、いちばん苦労しなかったのはわたしかも
 いじめられたりもしなかったし」

「相手にされなかったとか?
 友だち、いなかったんじゃない?」と末っ子は辛辣。

「いたよ、2、3人は」

「2、3人?」

笑いながら末っ子が言う。

「2、3人もいれば十分でしょう」

そうだ、2、3人もいれば十分なのだ、今でも。


***


別の日。

夫に訊いてみる。

「初対面の人はわたしのこと、どう思うと思う?
 おっとりしてる? 大人しい?」

頷きながら夫が言う。

「つかみどころがないと思うかも」

「やっぱり?」

「じゃ、子どもたち3人の中でいちばんわたしに似てるのは誰?」

「う?ん・・M(次男)かな」

やっぱりそうか、いちばんつかみどころがない奴(笑)


わたしの嫌なところがいちばん似たと思うのは長男、
けれども全体の印象は次男の方がわたしに似ているのかも。
わたしは彼のようには優しくないけど。


夜中に目を覚まして、何も言わず暗がりでじっと枕元に立っていた次男、
幼稚園に入ったばかりの頃、
ジャングルジムの天辺からみんなの遊ぶのをじっと見ていた次男。
母さんっ子だった次男。
ほかの子は「父さんと母さんとどっちが好き?」と訊くと「どっちも」
と答えていたが、次男だけは「母さん!」と言っていた(笑)


次男はいま、部活にバイトに時々勉強に、充実した大学生活を送っている。
友だちもたくさんいるようだ。
今朝は「今日から後輩が来るんだ」と言いながら部活(野球)に行った。
もう春休みなのだ。

脈絡なく

先日出かけた時に撮った写真を脈絡なく。


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「すべて時にかなって美しい」


神のなさることは、すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠を与えられた。
しかし人は、神が行われるみわざを、
初めから終わりまでみきわめることができない。
私は知った。
人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
また、人がみな、食べたり飲んだりし、
すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた
神の賜物であることを。
私は知った。
神のなさることはみな永遠に変わらないことを。
それに何かをつけ加えることも、
それから何かを取り去ることもできない。
神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。

(聖書:伝道者の書3章より)


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梅林にて

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Shall we dance?

メモ

レフ・トルストイ著『幼年時代』(国土社)より抜き書き。

***

人はよく顔の美しさ、ということをいう、それは笑顔のうちにだけあるようにぼくは思う。
笑顔によって顔に魅力がくわわれば、その顔は美しいのであり、
変わりばえがしなければ平凡であり、そこなわれれば悪い顔なのである。

***

内気な人々の苦しみは、自分についてどういう意見をもったかということがわからないことから起こるのである。
この意見がはっきり表現されれば――たとえそれが、どんなものであっても――苦しみはすぐにやむものである。

***

つよく愛することができる人びとだけが、つよい悲しみを経験することができる。
しかしまた、同じ愛したいという要求が、彼らに悲しみをのりこえるはたらきをし、彼らをいやすのである。
そのために、人間の道徳的自然は、肉体的自然よりもいっそうつよい生命力をもっているのだ。
悲しみはけっして人を殺さない。

「悲しみよ」


悲しみよ

                          水野源三

悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったら つよくなかったら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ




* 「まばたきの詩人」と呼ばれた水野源三さんの詩です。
水野源三さんは10歳の時に赤痢による高熱のため脳性麻痺の全身不随になり、
それから47歳で生涯を閉じるまで、見ることと聴くこと以外全く一人ではできない寝たきりの状態でした。
けれども彼はまばたきで自分の意思を伝えることができたのです。
そのようにして綴られた詩は、今でもたくさんの人に感動を与えています。

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子どもたちからもらったbirthday present
やっと開きました