September 2005

『High and dry(はつ恋)』

吉本ばななさんの『High and dry(はつ恋)』(文藝春秋)を読んだ。
吉本さんの本を読んだのは初めて。

ここに来ている人は意外に思われるかもしれないけれど、
わたしは5年前まで日本人作家の小説はあまり読んだことがなかった。
流行の小説というものもほとんどと言っていいほど読んだことはない。
それは映画も同じだけれど。

この本を手に取ったのは、児童文学のコーナーに置かれていたから。
出だしを読んで「借りよう」と思った。

ああ、大好き!と思う本だった。
でも、何がなのだろう? 

心に響いた箇所を書いてみる。


***


キュウくんは言った。
「・・・(家出していた)母が帰ってきたあと、家族で旅行に行ったんだ。
冬だから暖かいところへ行こうっていうことになって、沖縄に行ったんだ。
うちのお母さんは沖縄の出身で、その頃はまだ祖母が生きていたから、そこに遊びに行ったの。
それで、冬だから泳がないまでも近所のきれいな海辺に行って、
いつもみたいにお母さんは自分の世界にぼうっと入っていって、
父は缶コーヒーを飲んでぼうっとしていて、波の音がしていて、
僕はそれでも両親がまた仲良くなったことや、車の中でたわいない話をして
いちゃついていたことなんかが嬉しくて、神様に強く祈ったんだ。
足元を見ているふりをして、強く。この平和を僕から奪わないでください、って。
その時に、足元には、いろいろな貝と、珊瑚と、王冠と、ガラスのかけらと、丸石と、
缶のつぶれたのなんかがいりまじって、光に当たって、妙にきらきら光っていたんだ。
僕はそれをとても美しいと思い、目に焼きつけた。それは誰のとも違う、僕だけの祈りだった。
くだらない条件づけだと思ったことも何回もあったけれど、
でも、僕だけのものを僕だけが育てていこうとも思えた。
でも、そういうのって後づけかもしれないじゃない?
もしかしたら、僕の創る世界がどこかの世界にそっくりそのまま存在していて、
それが僕のほうに歩み寄ってきたのかもしれない。それから、なんだかわからないけれど、
生まれるより前に、僕の創るような世界に僕はいて、
生まれたらこういうのを作品にしようって思っていて、
それで人生の大事な場面で似たようなものをそうやって見て、これだ!と思ったのかもしれないし。・・・」


***



お母さんは・・・言った。
「人は、人の死や仲間とのあつれきを受け入れるようにはできている。
でも、殺人や戦争を受け入れるようにはできていないわ。
少なくともそう信じている人がたくさんいるから、人は続いてきたのではないかしら?
もちろん、私たちはみんな小さな箱に入っているものを見ているようなものだから、
別の箱から見たら別の考えがあるのでしょう。
でも、ここにいるからには、私たちは自分の箱を時には疑いながらも
その中にいることを最善として生きていくしかないのよ。」


***



この作品が好きだと思ったのは、キュウくんや夕子ちゃん(主人公)のお母さんが
自分に似た世界に生きている気がしたからかもしれない。
だとしたら、吉本さんも遠い世界の人ではないのかも。

またわたしの世界がちょっと広がる予感(笑)

夕暮れ

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運命

アシュリーが自分の境遇について文句を言うのを
私は一度も聞いたことがありません。
アシュリーは毎日微笑んで、一瞬一瞬を全力で生きています。
そう、アシュリーは今を、この瞬間を生きているのです。
他の人を心から愛し、彼女は輝いています。
アシュリーは前に踏み出すこと、自分自身であることを恐れたりはしません。
それはアシュリーが持って生まれたもの。
彼女は言葉で表せないくらい幸福で満ち足りています。

・・・これまでアシュリーにどれほど励まされ
アシュリーからどんなに多くのことを学んだでしょう。
私はずっと恵みを受けてきたのです。
こんなに尊い子どもを授かっている、
なんという光栄、なんという特権でしょう。

by ローリー(HPより抜粋)



アシュリーが自分を受容できているのはどうしてだろう。
ローリーや周りの人たちがそのままのアシュリーを受け入れているから?
それもあるだろう。
けれども番組を観たりアシュリーとローリーのHPを見たりしているうちに
アシュリーは、ローリーと彼女に関わる人々への神さまからの特別な贈り物だったのではないか
と思うようになった。
若い頃読んだ、障がいをもって生まれた子どもたちことをうたった詩にあるように(以下にご紹介)

親に反抗し学校を中退し家を出て麻薬に溺れていたローリー。
もしアシュリーが普通の子どもだったなら、最初の旦那さんと別れずにすんだだろうか、
親と和解できただろうか。より良い人生だっただろうか。

いや、「もし」と考えることに意味はないのだろう、
失ったものに目や心を留めることにも。
冒頭に書いたローリーの言葉を噛み締めるだけで十分なのだろう。
ローリーは神さまから選ばれ、アシュリーを託されたのだ。

自分の力では変えようのないことや起こってしまったことをどう捕えるか、
それで人は大きく違ってくるのだろう。

どんなに辛いこと・悲しいことも神さまのお許しなしに起こることはない。
だとしたら、神さまはわたしたちに耐える力も与えてくださるはずだ。
マイナスがプラスに変わることだってあるはずだ。そしてそれが
ローリーやアシュリーだけでなくふたりに関わる人たちが体験していることなのだろう。

ローリーの著書が読みたくなった。
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天国の特別な子ども


                                    Edna Massimilla (大江祐子訳)


会議が開かれました。

地球から、はるか遠くで。

“また次の赤ちゃん誕生の時間ですよ”

天においでになる神様に向かって、天使たちはいいました。

このこは特別の赤ちゃんで

たくさんの愛情が必要でしょう。

この子の成長は

とてもゆっくり見えるかもしれません。

もしかして

一人前になれないかもしれません。


だから

この子は下界で出会う人々に

とくに気をつけてもらわなければならないのです。

もしかして

この子の思うことは

なかなかわかってもらえないかもしれません。

何をやっても

うまくいかないかもしれません。

ですからわたしたちは

この子がどこに生まれるか

注意深くえらばなければならないのです。


この子の生涯が

しあわせなものとなるように

どうぞ神様

この子のためにすばらしい両親をさがしてあげてください

神様のための特別な任務をひきうけてくれるような両親を


その二人は

すぐには気づかないかもしれません

彼ら二人が自分たちに求めている特別な役割を。


けれども

天から授けられたこの子によって

ますます強い信仰と

豊かな愛を抱くようになるでしょう。


やがて二人は

自分たちに与えられた特別の

神の思し召しをさとるようになるでしょう。

神からおくられたこの子を育てることによって。

柔和でおだやかなこの貴い授かりものこそ

天から授かった特別の子どもなのです。

「短い命を刻む少女」

「短い命を刻む少女?アシュリー・14年間の軌跡」という番組を観た。

アシュリーのこと、そして普通の人の8?10倍の速度で老化する難病プロジェリア
のことをTVで初めて知ったのは一昨年。去年はその続編を観た。
他の人にもアシュリーのことを知ってほしくて、そのとき書いたものをHPに収めた。
                                   ↓
                            「アシュリーを生かすもの」


今回観た番組のことを書こうとして検索していたら、
アシュリーの言葉やあらすじが詳しく紹介されているブログを見つけた。
わたしの感想(?)はまとめるのに時間がかかりそうなので、
まずそちら(honeyさんのブログ)をご覧ください。
         ↓
     「Happy☆Lucky」


こちらはアシュリーとローリー(お母さん)のHP。行ってみてね。
  ↓
 Ashley and Lori's Place

遊歩道の花

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* 昨日こんなのを見つけました。息抜きにどうぞ。
 人工知能があなたの思い浮かべたものを当ててくれます。

顔と顔を合わせて

先週の土曜日「ひとり団地の一室で」という番組を観た(NHKスペシャル)
最近、老人ばかりでなく中年の孤独死が増えているという。
番組では、松戸市の常盤台団地での取り組みが紹介されていた。

常盤台団地もかつては時代の最先端をいっていた「ニュータウン」だったが、
今は建物も住民も老齢化が進んでいる。
住民の中には誰とも付き合いがなく、人知れず死んでゆく人がいる。
そのことに心を痛めた人たちが「孤独死予防対策センター」をつくった。
中心になっているのは、団地ができた頃からの住民、
つまり高齢の、子育てを一緒にし、ともに生きてきた人たちだ。


病気になり職も家庭も失い、閉じこもっている60歳の男性の家に行き、
部屋中に溢れかえるゴミを片付け、掃除をし、励ますのは、70代の女性。

その女性も旦那さんを亡くした時には長い間落ち込み、何もする気が起きなかったという。
心配し、声をかけ、差し入れをし、支えてくれたのは団地の仲間たち。

「人はひとりじゃ生きられないですから」

女性は言う。


やはり病気に倒れ家庭を失くし、働けずにいた男性(Sさん)は
3年前に団地に越してきたが、知り合いも行き来する人も一人もできず、
死ぬことだけを考え、一度は自殺未遂もした。
しかし、センターの男性がSさんの家に通って話をするようになってから
Sさんは少しずつ変わっていく。

センターの男性がSさんのためにできたことはただ
時々Sさんを訪ね、話をすることくらいだったが、
Sさんは病気になる前にやっていた仕事と関連する仕事ができたらと
教習所に通うようになる。
Sさんは死ぬことでなく生きることを考えはじめた。

自分のことを気にかけてくれる人たちがいる。
希望のようなものが見えてきた。

団地の夏祭りの日、センターの人たちも出店を出した。
Sさんも不自由な足を引きずりながら夏祭りに出てきた。

Sさんは言う。

「・・・顔と顔を合わせて話をすることが大切なんですね」

団地はSさんの新たな故郷となった。


顔と顔を合わせて・・・ひとり暮らしの中年や老人ばかりではない。
これは今、どの世代にも欠けていることなのではないだろうか。



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昨晩の月





番組が終わってから、夫に「長生きしてね」
結構必死でお願いした。

「ひとりになったら、わたし、どうなっちゃうんだろう???」

それを聞いていた長男、

「ひとりになったら、母さんは、パソコンしてるか、本読んでるか、歌うたってるだろうな
 あ、それから豆、食ってる」

「・・・歌わないよ? 自分のためだけに豆買ってきたりもしない、と思う」

「歌ってるじゃん! 買ってきてるじゃん!!!」

・・・そうでした。

そうなったら、う?んと落ち込んで、それから何かを見つけるよ、
誰かのためにできることを。それには健康でいなくちゃね。

アブチロン二種

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すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、

あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


(聖書より)



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  チューリップ オススメブログ チューリップ


「青磁色の器の向こうに」・・・by tea_set(タバスコ)さん

  * 憲法のお話はこちらにまとめられています。
  * 「タバスコさんのアトリエ」も見てね。

見つめることから

事実は「目に見える」が、

本質は「目に見えない」。


by 野中 郁次郎




昨朝「うたたねの記」の「まなざしと美醜?『醜い』女子高生に思う」という記事を読んでから、
あれこれ考えている。考えはまとまらないが、
まとまるのを待っていたら書かないまま終わってしまうような気がするので、ちょっと書いてみる。


寝太郎さんの文章を読んでまずはっとしたのは、
わたし自身、藤原さんの写真にあるような女子高生を、
いや、それだけでなく、自分の規範とは違った振る舞いをする人たちを、
自分と全く関係のない人たちと考え、
「『人』としてみず、『モノ化』してしまっている」かもしれない、ということ。

そういう時の自分の‘視線’は確かに、上から下を見下ろしている、高慢な視線だ。
そのように周りの人々を見ている限り、
それらの人々との「共感」や「連帯」が生まれることはないのだろう。


最近わたしは街に出ることも電車に乗ることもあまりないので、
わたし自身が写真にあるような女子高生を実際に目にすることはほとんどない。
息子たちは3人とも未だに「女なんか」というタイプで、
女友だちを連れてきたことも女の子のことを話すこともないから、
わたしには彼女たちがどうして電車の中でそのような「醜態」をさらすのかはわからない。

けれども、こう思うのも高慢なのかもしれないが、
写真を見つめていたら、彼女たちの「SOS」も聞こえるような気がした。
彼女たちは、ほんとうは誰かに見てほしいのではないか、
電車の中での姿は彼女たちの自己主張ではないか、
彼女たちは彼女たちなりに精一杯突っ張っているのではないか。
(夫に写真を見てもらい訊いてみた。「こういう子たち、見ることある?」
 夫:「ああ、大阪とか地方に行くと見るね」
 わたし:「そっか、東京には電車の中じゃなくても、たむろできる場所、
 たくさんあるものね」)


水谷修さん(夜回り先生)が関わっている無数の子どもたちのことを思う。
夜の街を徘徊する、居場所のない、ボロボロに傷ついた子どもたち。

写真に撮られた女子高生たちは少なくとも、高校に行くことはできているのだろう。
また「仲間」もいる。
そしてそのような「醜態」をさらすことで、人々から見られている。
「だから彼女たちの方が救われている」と言うつもりはないが。


写真にあるような高校生でなくとも、思春期も青春も昔からドロドロした厄介なものだ。
(それに、「乙女」に「清ら」のイメージを連想できるのは、
 共学を体験したことのない男性なのではないか?)
わたしの中学生の頃もよく「三無主義」と言われた。
その頃が「きらきら輝いていた」と思うのも言うのも
青春をとっくに過ぎた人ではないだろうか。
(これは偏った見方で、体育会系の人たちなら別のことを言うのかもしれないが。)


今という時期を生きている子どもたちのために、わたしに何ができるか、
時々考えるのだが、わたしにはまだわからない。
けれども、寝太郎さんの言うように、
たとえ自分の規範から外れた人たちであったとしても
自分とは関係のない人たちとして彼らを視界から排除せず、
見つめることから、知ろうとすることから始めようと思う。




* 昨年の春「わたしの場所」に書いたものですが、こちらも読んでみてくださいね。
 (I君のことと写真の女子高生のことはわたしの中ではつながっているのです)
「I君のこと」

どうということのない話

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数日前のこと。田舎に行っていた長男が、
父母が持たせてくれた花や野菜や‘おやき’を抱えて帰ってきた。
全体的にちょっと締まった感じ。

父から電話があった。

「もっと後だと思っていたら急に稲刈りになって・・・
 いてくれて助かった。あんなに気が利く坊主はいねえよ。」

長男はそうやって父母の役に立つのが嬉しいらしい。
11月にも田舎に行くという。
彼、家ではPCとゲームばかりしてしているのだが・・・。


長男には机に向かって勉強するより身体を動かす方が合っている。
2年後どんな道に進むか、楽しみにしていよう。
(と言いつつ、いくつになっても、夢ばかり見てる長男がほんとは心配
 「あなたと同じだね」夫の声が聞こえるよう 笑)

幸せ感

大学生なんかに言っておきたい。やりたいことがあるのもすごく大事だけれど、
自分の居場所や仕事を好きになるのも、結構大事な才能かもしれないよ。
・・略・・会社を移るにしろ、就職しないにしろ、
その時々で楽しみや幸せを感じられるような受け皿を持っておいた方がいい。
大きな幸せ感は時代や社会によって変わるけど、ささやかなものは変わらない。
赤ん坊の顔を見るとなんだか幸せになるっていうのは、永遠のものなんです。


                                  by 重松清さん


だけど、たとえば電車に赤ちゃん連れのお母さんが乗ってたとして、
赤ちゃんに目を留める人は何人いるだろう。

ささやかな幸せって、確かにとても身近なところにあるけど
それに気づく人は案外少ない。
ささやかな自分の幸せを共有してくれる人は、もしいたとしても、ほんの僅か。
だからひとりでも共有できる人を見つけたら、とてもラッキーなんじゃないかな。

見つけたら大事にしよう。
その人とはたぶん生涯の友だちになれるから。



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「暗いと不平を言うよりも進んであかりをつけましょう」

カトリックのこの標語が

母の口癖だった




チューリップ オススメサイト チューリップ



より自分らしい人生を・・・keikoさんのサイト

ご主人は‘布川事件’で強盗殺人罪を問われ、「無期懲役刑」を言い渡された桜井さん。
長い間無実を訴え続けてきましたが、昨日ようやく「再審開始」の決定がされました。
こちらもご覧ください。

生活の場に

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夏に撮った写真です(今はもう稲刈りが終わっているそうです)


稲の向こうに見えるのが母の眠る墓地。
この墓地でわたしは子どもの頃よく遊びました。
夜、墓地のそばを通ってお使いに行くこともありましたが
不思議と怖いと思ったことはありません。

死は誰にでも必ず訪れるもの。
自分の思い通りにはならない自然の中に生きる農家の人たちは
そのことを当たり前に受け入れていたような気がします。

義父が亡くなったとき、わたしたちは実家のそばにお墓をつくりました。
畑の片隅にある小さな墓地に。

そこからは山々が見え、近くに川が流れています。
夏に帰省した時、子どもたちはその川で釣りをしました。


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  チューリップ オススメブログ チューリップ

★ 「おしゃれ手紙」 by 天地はるなさん

★ 「ぼくらはみんな太陽だ!」 by AYAさん


新企画「オススメブログ」の登場です。
昨日はるなさんのブログを見つけ、ひらめきました(笑)
はるなさん、まねっこでごめんなさい。

水に

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流 れ よ

自民党圧勝

★ みなさんへ ★



この記事、選挙の日から数日にわたって書いていて
読みにくいような気がするので
日付の新しいものが上に来るようにしました。

みなさんも、オススメのブログやHPがあったら教えてくださいね。


***



20日の追加分です。

* innernetblog 心網付録 by 星川淳さん

* 「国民に知恵と意識を」 from JCJのHP

***


16日です。追加します。

* 新イラク取材日記 by シバレイさん

* 「ネットでも自民が圧勝」 from 共同通信

***


13日です。追加です。

* 「9 ・11」  by 細井明美さん

***



日付変わって12日です。
マイぷれすで興味深い記事を見つけたので、ご紹介します。

* 「さようならみなさん。さようなら民主主義。」  by あすろん1へるつ さん
  ↑ ブログ、閉鎖されたようです。あすろん1へるつさん、ご苦労さまでした(20日記)

* 「日本人を辞めたい」 by 要さん

こちらはマイぷれすではありませんが

* うたたねの記 by 寝太郎さん

*  不眠に悩むコヨーテ  by 田口ランディさん

***



自民圧勝の次は憲法改悪?

京女大現代社会学部の平川秀幸さんのブログです。
ご覧ください。
   ↓
Mangiare!Cantare!Pensare!

                                      (11日 記)







みかん



ちょうど読み終えた『ゴマメの歯ぎしり』(早乙女勝元著/河出書房新社)に
タイムリーな言葉を見つけたので抜書きします。
(これは平和にこだわって生きてきた早乙女さんの「エッセイふう戦後自分史」です)


***



 ・・・すべての物事は一人から始まるのだと私は痛感した。
一人がいなければゼロで、ゼロでは状況は変わらない。
一人の声が次の声につながり、心と心を結んでいくには、
最初の言い出しっぺが不可欠で、黙っていることは決して中立なんかではないのだ。

 状況が暗い方向に傾斜していく時には、自分では中心部のつもりでいても、
沈黙は容認と同じで、悪いやつらの思うつぼにはまるということ。
「何もしなかったのがあなたの罪だ」の一言は、昔も今も変わりなく、
私たちの人生に問いかけるものがある。

*


早乙女さん:「日本の若い世代に、何かメッセージがありましたら」

アウンサン・スーチーさん:「自分以外の者に目を向けることです。
自国以外の国にもね。精神的に充実した人生を生きるには、
他者の願いをかなえるために、責任を負う勇気も持たねばなりません」

*


「・・・大事なことは、私たちが何もしなければ事態は変わらないということ。
あなたたちが、国内で臆せずに発言していくことですよ。
あなたのようの文章を書く人や学者、教師、学生のみなさんに、
特にその責任が課せられているのです。平和主義は、
平和を愛する人びとがどれだけ増えるかにかかっているのです。
それには若い世代を納得させ感動させられる教育が必要です。
二十一世紀の人類にとって、いま求められているのは、
平和に向けての積極的な一歩ですよ、それぞれの発言ですよ」 

by アリアスさん(コスカリカの元大統領)


*


 何はともあれ、先に自衛隊派兵ありきで、その既成事実をひと押しにしていこう
との意図が、みえみえである。

 戦闘服姿の自衛隊員が、重装備で‘‘戦場’’入りしたからには、
首相のいう「殺されるかもしれないし殺すかもしれない」緊急事態は、
避けては通れぬ道だろう。

 その時、自衛隊は撤退するのかといえば(そうしてもらいたいし、
今すぐでも引き揚げて欲しいが)、私は逆に働くのを恐れている。
「ここでテロに屈するな」とばかりに世論をあおりたて、派兵増強、
装備強化で報復の引き金から理性が欠落しないか、そうなれば
派兵の足カセたる憲法九条を狙いうちにする改憲に拍車がかかり、
徴兵制すら現実的な課題となってくるのではないのか。
一言を付け足そう。私たちが手をこまねいていれば・・・と。

 若い世代から、かつての戦争をなぜ阻止できなかったかとよく聞かれるが、
今まさに戦後が「銃後」に移行しつつあるのだ。異常な空気に慣らされ、
慣れてはいけない。「これはおかしい」「これは違う」と思ったら、
その一言を口に出して、伝えるべきである。
言い出しっぺたる主体的力量が、それぞれに問われているのではないか。

 ・・・すべての紛争を平和的手段で解決すべきは、憲法が政府をはじめ
国民に課した使命であって、私たちがその憲法九条を手放した時が、
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こる」(憲法前文)
‘‘いつかきた道’’なのだと思う。「往け、戦へ、死ね」を二度と繰り返してはならないのだ。

つながり

人間のつながりは、すべて友情で結ばれた方がいい…
友だち同士はもちろんだけど、親子も夫婦も恋人同士も、
生徒や教師の関係も、みんな友情で結ばれた方がいい。
そして、その友情の根っこにあるものは、
相手に対する尊敬の念だ…
尊敬はどんな小さなことでもいい…。


by 灰谷健次郎



そう、誰かとの関係が長く続くときは必ず、その人に対して、
「ああ、この人には絶対勝てない」という思いがあるのです。
どんなに呆れちゃうことや頭にきちゃうことがあっても、「大好き!」と思えるのは
だからなのでしょうか。



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都会の夜は

あまりに明るすぎて

十五夜

ちょっと居心地悪そう



ひまわり



関係ないけど、書いておきます。

DRECOMって、いきなりメンテナンスが入ったり、しょちゅうエラーが出たり。
みなさんにもご迷惑をかけていると思います。
それなのに、めげずに来てくださって「ありがとうございます」。
(もしかして、めげちゃった人もいるかも?)

「コメントしたくてもできないのよ」
とマックユーザーの人たちから聞いたこともありますが、そういう時は
どなたでも遠慮なくHP(日だまりの窓辺)のbbsに書いてくださいね。

DRECOMってトラブル続きであまり評判は良くないし、
接続が悪くてイライラすることも多いけれど、
簡単に画像をアップできるところとか、どこにも属していないひっそりとしたところが
わたしは結構気に入っています。
(ん? わたしはどこに書いてもひっそりしてるかも? 笑)

でも、HPや他のブログにリンクしてない人たちは
よっぽど積極的な人でないかぎり、横のつながりはできませんよね。
みんな、寂しくないのかしら。

ブログを公開している理由は人によって様々でも
ネットに書いている人はみな何かを、いえ、誰かを求めているはずだから(違う?)

だけど、それはどこに書いても一緒ですね。

コメントの多いブログの管理人さんは相当の時間を削って
他のブログを訪問したり書き込みをしたり
自分のブログにお返事を書いていると思うのです。

たくさんのサイトを毎日訪問していても滅多に声をかけられないわたしには
とても真似のできないこと。

でも、日記の時は自分の借りている日記サイトの中でしか交流はできなかったけれど
ブログなら、その気になれば、どこで書いていてもつながっていける。

求め、開き、書きつづけていれば。
そして自分を保つことさえできれば。

可能性は無限大です。

隣人

イエスは・・・言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司が一人、その道を下って来たが、
彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、
自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

                                (聖書:ルカの福音書10章より)



とても有名な箇所だが、先日ある本を読んでいたらこの箇所の説明文に、
「隣人」というのは、言葉を換えれば、あなたを必要としている人なのです、
と書かれていて、はっとした。
そうだ、自分を必要としてくれる人の隣人になればいいのだ。
気持ちが少し軽くなった。



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昨日の空




毎日いろんなブログにお邪魔しているが、いま圧倒的に多いのは空の写真。
みんな空を求めている。そんな季節。

お散歩に行きました


緑と

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水と

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花と

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みんな

心の糧になる

懐かしい風景

「男はつらいよ」で寅さんが
旅先の景色にボーッとなるのが毎回あるんですよ。
よく海外ロケしたらどうかといわれる。
しかし、海外ロケをしたからいい景色が撮れるかというと、
ボクはそうじゃないような気がするんですよ。
いい景色ってのは、
なにもチョコレートの箱のようなスイスの山の風景じゃなくて、
どこかで見たことがあるような景色じゃないかって・・・・・・。
たとえば、白壁に前の柿の実が赤くなっているような景色をみて
‘‘アッいいなァ’’と思う。
ある懐かしさみたいなもんなんです。


by 山田洋次監督



年代によって「懐かしい風景」は違うのだろうか。
それとも日本人共通の何かがあるのだろうか。

あなたにとって、懐かしい風景って、どんな風景ですか。



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ウインナーのおまけに
向日葵の種がついていて
半信半疑で蒔きました

いくつか芽は出たのだけれど
育ったのはひとつだけ

やっと花が咲きました

ブログまで(総括)

昨日久しぶりに友だちと長電話をした。

「先週急に膝が痛くなってね、整体に行ったら体重減らしなさいって。
 仕事? 大丈夫。注射してもらったら良くなったから。
 自分でマッサージしたり体操したりもしてるし。
 目標ができたから元気。
 そういえば、最近、生理も不順でね、そろそろ更年期かなぁ」

そう言いながら、友だちはちょっとワクワクしてるらしい。
噂に聞く更年期というものがどんなものか興味があるのだろう。
そして更年期になったと思ったら、本を読み漁り、いろんな人に体験談を訊くのだろう。
わたしと同じ。でも友だちの方がわたしよりずっと体当たり。だから時々砕けている(笑)

「わたし、更年期はもう終わった気がする」

「え? これからでしょ」

「話したことあったでしょ? 精神状態悪いって。覚えてないの?」

***

ネットを始め大所帯のMLに入ってから2年ほど、
わたしの精神状態はこれまでの人生で最悪だった。
二十代初めの頃のわたしが更に悪くなった感じ。

わたしはひたすら自分やMLで出会った人たちの心を見つめ、
自分の過去を振り返り、村上春樹さん、田口ランディさん、
重松清さん、川上弘美さんなどの本を読んだ。
そしてますます内向していった。

前に書いたように、わたしはMLに家族のような親密なつながりを求めていたが
それは子どもたちが大きくなってきて
自分から離れていくのを、いや離さなければならないと感じていたからかもしれない。
その代わりをMLに求めていた部分があるのは否めない。
管理人さんたちには酷く迷惑な話だったと思う。

(蛇足だが、数々のMLを遍歴したのをわたしは後悔はしていない。
 MLにいなければわたしは自分の小さな世界だけで満足していただろうし、
 書くことの楽しさに気づくことも、HPをつくることもなかっただろう。
 またネット以外では出会えない人と言葉を交わすことも
 大切な宝物となった友人を得ることもなかっただろう。)

わたしは自分の未来を思い描けないでいた。
何をすべきなのか、できるのか、したいのか、わからなかった。


MLでも日記スペースでも、わたしが気になる人や惹かれる人は
上手く生きられない人たちであり、心の病んだ人たちであり、ハンディのある人たちだった。
‘普通’の人たちより彼らの気持ちの方がわたしには共感できたし
わたしの言葉もまた‘普通’の人々より彼らにより届くような気がした。

わたしは彼らとともに生きたかった。

だが、MLだけのつながりで、ネットの中に自分の場所(HPや日記帳)をもっていなければ
彼らのことを知るのは困難だった。自分の場所をもっていても、
わたしにできるのは彼らのつぶやきを聴いて時々声をかけることだけ、
ネットだけのつながりの人たちにできるのはそのくらい。
(自分を変えることのできるのは自分だけだ)

でも、もしかしたらそれだけで幾ばくかの力にはなれるのかもしれない。
わたしはわたしの場所に居つづけ、わたしを書いていこう。
そしてわたしを必要としてくれる人のそばにいさせてもらおう。
誰かのそばにいさせてもらうこと、それはわたし自身にとっても必要なことなのだから。

こんな簡単なことがわかるまで、わたしは随分長く悪あがきをし、
たくさんの人に迷惑をかけた。


MLでも人質事件でも今回の衆議院選挙でも思い知らされたのは、
わたしは少数派であるということ、つまり
わたしの大事にしてきたことや見てきたものや考え方が一般的ではないということ、
わたしの価値観も優先順位も他の人と相当違うらしいということ。

わたしはリアルでもネットでもどこか浮いていた。
それを感じていないわけではなかったが、
わたしは周囲に合わせようと思ったことはなかった。
それに、わたしには自分がそれほど間違っているとは思えなかった。

昨日、人質事件の時のことを書きながら思っていた。
わたしの大切にしてきた美しい風景や温かい人間模様のあるこの国が
大きく変質してしまっているのを、あの時、わたしは感じていたのではなかったか、と。

だが、生きることを諦めるわけにはいかない。
わたしには伝えたいことがある、伝えなくてはならないことがある。
それは生きている限り続くのだろう。


家族のようなMLの夢はわたしひとりの夢で終わってしまったけれど
わたしは今も夢を見ている。‘ネット共同体’の夢だ。
これもまた夢で終わるのだろうか。だとしても、夢見る価値はあると思っている。
わたしはそれを実現するためにも
ネットの人間関係に翻弄されることなく、一対一の関係を大事にしながら
自分の見たこと、聞いたこと、感じたこと、考えたことを書いていこうと思う。


もうひとつ、ネットを始めてからの5年を振り返りながら思ったことがある。
わたしたちは自分の心がほんとうに望むものに出会っていくのではないだろうか。


どうかみなさんのブログからブログへ、HPからHPへ、温かさが広がってゆきますように。

ブログまで(11)

今日は時間があるので、一気に行きます。


太陽


去年の7月、マイプロフィールはドリコムになり、日記からブログに変わりましたが、
コメント機能やTB機能をつける気持ちにはなりませんでした。

でもその頃わたしはいろいろなブログがあるのを知り、
もうひとつブログをつくることにしました。「明日へ」です。

五行歌というものがあるのは数年前から知っていて
五行歌のHPも覗いていたのですが、書いたことはありませんでした。
それなのに、いきなりブログをつくってしまったわたし。
無謀といえば無謀ですが、五行歌にはそれだけの魅力があるのだと思います。

でもブログをつくってはみたものの、続ける自信はありませんでしたし
心の置き場(自分を見つめ表現する場所)があればそれで良かったのですから、
最初HPや他のブログにはリンクせず、別のHNを使いました。

実は「明日へ」は二度お引越しをしていますが、
最初に書いていたライブドアでわたしは数人の方に出会います。
「明日へ」をgooに移転してから、ここと「明日へ」をリンクしたのは
その方々にも来てほしいと思うようになったからです。

(「わたしの雑記帳」にはその少し前からコメントとTB機能をつけていました。
 ・・・清水の舞台から飛び降りるような気持ちで 笑
 そしてごく最近、マイぷれすのテンプレートを変え、
 そちらもコメントやTBができるようにしました。
 「明日へ」はFC2に移転しました。
 gooはサイドバー等のカスタマイズができないからです。)

それからのことは、お話しする必要はありませんね。


振り返っていたら、いろいろなことを思い出しました。
出会ってきたたくさんの人たちのことも。
いまは連絡がなくなってしまった人たちもいますが、
ひとつひとつが掛け替えのない出会いでした。

ひとりひとりの名前は挙げられませんが、心から「ありがとうございました」。





* 長い間「ブログまで」にお付き合いくださったみなさん、お疲れさまでした。
  明日は、これまでの総括をしたいと思います。
  (「え??! やっと終わったと思ったのに、まだやる気?」「はい(笑)」)

ブログまで(10)

ライコスと比べると、マイぷれすはとても静かな所で
会員同士の交流もそれほど盛んではないようでした。
わたしが入った頃は、ライコスからの引越し組みの影響で
一時的に賑わったのですが。

マイぷれすにはライコスで知り合った人も数名いたので、
わたしは主にその方々の日記を読んでいました。
そして気が向くと彼らのお気に入りや「マイぷれす通信」から
いろいろな人の日記を見にいき、声をかけたりしていました。

bbsも、よく書き込んでくださる方々のおかげで、温かく賑やかな雰囲気になってきました。
HPのbbsで声をかけてくれる方も何人か現われました。
いくつかのサーチエンジンに登録したのはこの頃だったと思います。
(日記才人にはライコスの頃から登録していました)

当時マイぷれすに書いていたのは、
「わたしの場所から」にいま書いているような雑文もありましたが、
ここに書いているような日記に近い内容のものもありました。
(当時「わたしの場所から」はほぼ毎日更新していました)


転換点は、イラクへの自衛隊派兵でした。

その年のクリスマスにわたしは初めて自衛隊派兵反対のデモに参加しました。
翌年初めには映画「ヒバクシャ」を観、池田香代子さんの講演を聴きます。
そして4月、自衛隊が派兵されていったイラクで高遠さんたちの人質事件が起こったのです。

その頃書いたもののいくつかはこちらにまとめました。


わたしはそれまで政治には全くと言っていいほど関心がありませんでした。
自分が知ったところで何になるだろう? 社会を動かしているのは権力者たちなのだし、
世の中は所詮なるようにしかならないのではないか、
知って闘っても無駄ではないか、という気持ちだったのかもしれません。
(知ったらそのことだけになるかもしれない自分が怖かった
 ということもありますが 笑)


高遠さんがイラクのストリートチルドレンのためにしてきたこと、
今井君が劣化ウラン弾廃絶のために絵本をつくりたいと思ってイラクに行ったこと
を知り、わたしはとても感動しました。
若い人たちの中にも、このような無私の心で行動している人がいるのだ、と。
わたしは「早く解放されてほしい」と切実に願いました。

ところが政府の反応は、全く違っていました。
政府に3人を助ける意思のないことは明白でした。
人質になった3人と家族の方々へのバッシングの嵐が日本中に吹き荒れました。

「これは一体なんだろう? どういう感覚なのだろう?」と思いながら、
わたしは一般に流されるニュースとは違った内容の情報を
HPやマイぷれすのbbsに書いていました。
そのこと一色になったbbsに来てくれる人はほとんどいなくなりました。
(でも、その中でも来てくれた方が何人かはおられました。
 ほんとうにありがとうございました。)

わたしはそれでもいいと思っていましたが、
わたしがそのような「偏った」情報を流すことで
リンク先の人たちに迷惑をかけるのではないか、
それが気がかりでした。

日本だけでなくイラクを含めた世界中の数えきれない人々の尽力で3人が解放され、
騒ぎが落ち着いてきた頃、
わたしはマイプロフィール(ドリコムの前身)に日記を書きはじめます。
他愛のない自分の日常の出来事や心模様が書きたくなったのです。
マイプロフィールには他の日記とのつながりもなく
コメント機能もなかったので、気楽でした。
「わたしの場所から」で、コメント機能のないテンプレートを使うようになったのも
その頃だったと思います。
わたしは心を閉ざしていたのかもしれません。
日記(ネット友だち)を開拓したいという気持ちはなくなっていましたから。


(HPの方のbbsに反戦関連の情報を流すのはやめ、
 他の人にも読んでほしいと思うことは「わたしの場所から」のbbsに書くようにしました。
 そちらの方がたくさんの人の目に触れるのではないかと思ったからです。
 それに、HPのbbsは穏やかな場所にしたかったのです。

 「わたしの場所から」のbbsに
 時々ブログの紹介をしたりお知らせをしたりしているのは
 次のような気持ちからです。

 政治のことも世界情勢のことも自分にはわからない、
 でも、せめて知る努力はしなくてはならないのではないか、
 そして知ったことを伝える努力は。

 読んでくれる人がいるかどうかはわからないけれど、
 まだ自分の言葉で語ることのできないわたしに今できるのはそれくらいなのだし、
 できることはしなくては・・・。)
 






***続きます***

ブログまで(9)

ライコスは交流の盛んなところで
日記から日記に飛んでいくのも簡単でした。

例えばBさんがAさんの日記に書き込みをした場合、
AさんやCさんが「Bさんってどんな人だろう?」と思ったら、
Bさんの書き込みについているマークをクリックするだけで良いのです。

「メモ」という機能もついていて、お互いのアドレスを知らなくても
簡単なメールを送ることができました。

声をかけてくれる人やわたしの日記をお気に入りに登録してくれる人もチラホラ現われ、
ライコスに嵌りはじめた頃、わたしは大変なことに気づきます。

ライコスは8月いっぱいで楽天に吸収される・・・

8月に入ると、あちこちの日記の話題は「移転先はどこにする?」ということばかりになり、
早々とお引越しする人も出てきました。
わたしも次を考えなくてはいけなくなりました。

そんなわけでライコスにいたのはたったの1ケ月。
けれどもライコスはわたしに大きなプレゼントをしてくれました。
わたしは真摯に自分や周りの人々や物事を見つめ、
文章を綴る人たちに出会うことができたのです。
(後に出会った人たちもそうですが)

詩、言葉、日記と、形態はさまざまでしたが、そこから伝わってくるのは
その人たちの魂としか言えないようなものでした。
わたしは彼らの書くものをずっと読ませてもらいたいと思いました。
でも、そのためにはわたしも書いていなくてはなりません。

ライコスの後の日記スペースはマイぷれすに決めました。




***続きます***

ブログまで(8)

HPを公開したのは2002年10月1日。

わたしは当初HPを毎日更新するつもりはなかったのですが、
MLや日記帳で知り合った人たちが訪ねてきてくれるのが嬉しくて、
bbsに日記のようなものを書きはじめました。

温かい人たちに囲まれ、HPは順調に始まったのですが、
すぐにわたしはネットの人間関係の渦の中に巻き込まれることになります。
ひとつ終わったと思ったら次の問題が起こり・・・という具合で
やっと静かになったのは翌年の3月の末でした。

そのことで改めてネットの人間関係の難しさを知らされました。
そして、ネットのつながりしかない人のために何かをすることの難しさを。

わたしのお節介が全くの無駄だったとは思いませんが、
わたしはもっと注意深くすべきでした。自分の無力さに気づくべきでした。
結果的に、bbsによく来てわたしを支えてくれていた青年(日記帳時代の友人)を
酷く傷つけることになってしまったのですから。

3月末、わたしは一時的にbbsを閉じました。
でも、書くのをやめたわけではありません。
HPにひとつのページをつくり、毎日書いていたからです。
それはbbsを再開してからも続きます。

そのとき書いていたのはこんな感じです(日記帳時代のものもあります)



しばらくしてbbsは復活しましたが、HPに来てくれる人は一向に増えず、
常連だった人たちが引越しや多忙のために来れなくなると、とても寂しくなりました。

時々ネットめぐりをして「いいなぁ」と思うサイトに巡りあって声をかけると
一度は訪問してくれるのですが、後が続きません。

(そのとき主に声をかけていたのは詩や写真のサイトの管理人さんでしたから
 気後れも大きかったのです。わたしには詩も小説も書けないし、
 写真に至っては、初心者とも言えないからです。)

新しい出会いが欲しくなったわたしは、
日記スペースを提供してくれるサイトを検索することにしました。
そのとき選んだのがライコスです。7月末のことでした。




***続きます***

ブログまで(7)

MLでのあれこれに一喜一憂するわたしに
大所帯のMLで知り合ったメール友だちが言ってくれたことがあります。

「あつこさん、自分でMLを立ち上げたら?
 HPをつくるのも良いかも」

そのときは「とんでもない」と思いました。

MLの管理人? 無理よ。
わたしの興味は限られているし、世間知らずだし、
話題も豊富でないし、真面目すぎて面白くないし、
誰にでも同じように接することなんてできないし・・・、
それに第一、会員の投稿や出入りが一々気になって
そのことで頭がいっぱいになってしまう・・・。

HP? いったい何のHPをつくれと?
文章系? わたしにはそんな筆力はないわ。


人間というものは、変わるものです(笑)

ネットの日記は消滅することもあるんだ、ということに気づいたわたしは、
ネットの中に、ネットで知り合った人たちが訪ねてくることのできる
自分の場所、つまり自分で管理できるHPをもちたくなりました。
でも、それにはコンテンツが必要です。


前にお話ししたように、わたしは初めてのネットの日記帳で
‘詩のようなもの’(今でもわたしは自分の書くものを‘詩’とは思っていません)や
‘エッセイのようなもの’を書くようになりました。
それを整理するうちに、HPに載せるコンテンツのおぼろげな形ができてきました。

ブログとは違って日記帳にはカテゴリーに分ける機能はなかったので、
わたしの日記帳は日によってバラバラで、統一性は皆無でした。
まるで大勢のわたしがいるようでした。

(わたしは参加していたいくつかのMLで別々のHNを使い
 文体や内容も微妙に変えていました
 だから混乱は深くなっていたのだと思います)

「大勢のわたし」はほんとうはひとつのわたしであるはずです。
その「わたし」を整理してみよう、と思いました。


わたしの場合、心が決まれば行動あるのみ!です(笑)
日記帳に書けなくなってから2ヶ月もしないうちにHPは完成しました。


何というネーミングにするかは結構迷いましたが、
みんなが気軽に来てくれるような温かい場所にしたいな、という気持ちから
「日だまりの窓辺」とつけました。
今は載せていませんが、サブタイトル「君のままで」は来てくれる人へのメッセージのつもりでした。
「ありのままでいいんだよ、そのままのあなたで訪ねて来てね」という。


HPをつくった当時の気持ちをいちばん表していると思うのはこれです。



ハート


あなたへ


あなたにはあなたの世界があって
わたしにはわたしの世界がある
重なっているところは ごくわずか

あなたが気になる日には 
ノックしてみるけれど
お家に入れてくれるかどうかは 
あなた次第

入ってよい日は ドアを開けてね
そのときは 目と目を合わせて
お話ししよう 

暑い日には 森を散歩するのがいいね
日が暮れたら 
夜風に吹かれ そぞろ歩こう

あなたの大事な世界を 
壊したくはないから
無理やり押し入りたくはないから

音のない夜が降りて来たね 
月明かりが
あなたの夢を照らしてくれますように






***続きます***

ブログまで(6)

その言葉を目にしてから何回目かに、わたしは意を決して日記帳をつくることにしました。
2002年3月末のことです。

そこは日記帳というよりも掲示板のようなもので、
一行に入る文字がそれほど多くなかったので、
わたしは詩の形を借りて、自分のさまざまな想いや出来事を綴りはじめました。

最初はそれだけで嬉しかったのです。

ところが少しすると、ぽつりぽつりとわたしに声をかけてくれる人が現われました。
掲示板なので、誰でも書き込みができたのです。
日記帳をもっている人が書き込みをすると、その人の日記にリンクが張られる仕組みでした。
それでわたしも少しずつ書き込みをしてくれた人の日記にお邪魔したり
素敵な日記はないかなぁ、友だちになれる人はいないかなぁと、
一覧から探したりするようになりました。


そこでも、わたしには好きな人や気にかかる人が数人できました。

あるとき、その中のひとりTさんの様子がおかしいと思い、尋ねてみたら
彼の気にかけていた人(Kさん)の日記が突然削除されてしまったというのです。

(それ以前にも、その日記スペースを運営するAさんの判断で
 日記帳が削除されることが何度かあったといいます。)

どうもKさんが自分の日記帳でAさんの運営の仕方に文句を言ったのが
Aさんの気に障ったようなのです。

それだけのことで本人の承諾もなしに
Kさんが大切に丁寧に綴っていた詩も大事な場所も跡形もなく消されてしまう・・・
Kさん、どんなに傷ついたでしょう。
(その後わたしはAさんにメールしてKさんの日記のことを訊いてみましたが
 「それについてはお返事できません」とのことでした。)

しばらくしてTさんも日記帳から姿を消しました。
(Tさんの日記は書き込みの多い日記でした。
 彼はたくさんの人と交流し、ネット上のパーティーなどもしていたので、
 Aさんを含めた日記記者たちの心の闇の部分を目にして傷つくことも多かったようです。
 正義感の強い青年でした。)

わたしも日記への書き込みを躊躇うようになります。



木



桜のじゅうたん


桜は満開を雨の中で迎え
戸惑っていた
久しぶりの青空の下
桜の花びらが散ってゆく
入学式まで待てずに…

桜のじゅうたんを遠回りして歩こう
薄桃色があまり早く色褪せないように

朝冷たかった風が今は暖かい
頬に受けてどこまでも歩いていきたい
故郷の春が見えてくるまで

まだ早い信州の春の中、
急いで逝ってしまった健ちゃん
愛する者たちの心に
たくさんの思い出を残して

苦しかった日々を支えてくれたのは何?
一度ゆっくり話がしてみたかった
手を握りながら

後悔はいつも苦い
誰も過去を取り戻すことはできない

桜の花のじゅうたんの毛布を
健ちゃんにかけてあげたい

私の想い 天を駆けてゆけ




*その日記で最初に書いたものです。
 健ちゃんというのは従兄弟の息子さん。筋ジストロフィーでした。
 わたしは一度会ったきりでした。
 健ちゃんは17年間精一杯生きて旅立っていきました。



***続きます***

ブログまで(5)

これを書き終えないとどこにも行けないようなので続けます。


***


メル友募集をしたのは確か2回だったと思います。


わたしが子どもの頃はペンパル(ペンフレンド)というのが流行っていて
子ども向けの雑誌にも大人向けの雑誌にもペンパル募集コーナーがありました。
わたしも外国の人数名と手紙を交換していたことがあります。
高校の頃は「兄貴」と呼んでいた年上のペンフレンドもいました。
(その人は同じ県に住む人で、わたしが地元の放送局に出したリクエストの葉書を見て
 「ペンフレンド」になりませんかと手紙をくれたのです。
 随分長い間手紙をやりとりしましたが、写真を交換することも会うこともありませんでした。
 今頃どうしているかしら、兄貴・・・。しょぼくれてたら嫌だな。)

と書いて、思い出しました。
わたしは高校以後は日記はほとんどつけていなかったのですが
手紙はもうしょっちゅう書いていました。いろんな友だちに宛てて。
それは結婚するまで続きます。

わたしにとって、文章というものは人が読んでくれて初めて意味あるものなのかも。
そういえば小学校の時の日記が続いたのは母と担任の先生が読んで
時々コメントをしてくれたからなのです。


長い出だしを書いたのは、わたしはペンフレンドを募集するのと同じ感覚で
メル友を募集したということを書きたかったからです。
でも、わたしは忘れていたようです。自分も自分のメル友になってくれそうな人も
もう子どもではないことを。


メル友募集のメルマガにわたしの紹介文が載ってから
何十通メールをもらったでしょう。そのほとんどは男性でした。
わたしは、ロマンスを求めているようなメールは弾いて
真面目そうな人にだけお返事を出しました。
誤解されると嫌なので、夫や子どものことも書いて。

中には、この人と友だちになれたらいいな、と思うような文章の上手な人もいたのですが
わたしの返信に対するお返事はありませんでした。
もしかしたら、わたしが「人の心理とかも興味あります」と書いたせいかも(笑)

数十通やりとりをした人もいますが、大抵は数回で終わってしまいました。

・・・「終わってしまった」という書き方は正確ではありません。
終わらせたのはほとんどわたしですから。

「真面目そう」と思った人は、もう子育てを終えた随分年上の方たちばかりでした。
ですから、話が合わなかったのです。
カチンときたのは、ある方々の「あなたは○○だから」という言い方です。
彼らは理想の女性像をわたしに投影していたのかもしれませんが、
数回のメールのやりとりで、わたしの何がわかるというのでしょう。
わたしはその人ちの型にはめられるのはごめんでした。

そんなわけで、わたしのメル友探しは失敗に終わりました。


あああ、メル友探しって難しいものね、思うようにはいかないわ。
そう思っていたとき、
メル友を探すためにとっていたメルマガの言葉が目に飛び込んできました。

「日記帳をつくりませんか」




***続きます***

ブログまで(4)

MLに入る動機はそれぞれ。

何気ない会話を楽しみたいからだったり、
心に引っかかっていることを打ち明けたいからだったり、
気の合う友だちをつくりたいからだったり、
自己主張したいからだったり、
誰かに励ましてもらいたいからだったり、
自分の書いたものを読んでもらいたいからだったり・・・。

でも管理人以外に共通しているのは、気に入らなければすぐにでも退会できること。
家族のように永続する関係を求めて入会する人はいないのでしょう。
まして、自分を傷つけた相手に真剣に向き合おうとする人などいないのです。
MLをやめさえすれば、それで「さよなら」できるのですから。


好きになった人や気になった人に対する自分の執着心に改めて気づきながら
わたしは思っていました。

満たされそうになって撃沈される、
もうたくさん、こんな気持ちになるのはもうたくさん、
MLに振り回されるのはもうたくさん。

けれども、わたしはそれからも何度か入会・退会を繰り返します。
愚かなわたしは、2001年夏に友人に誘われて入会したMLで
もう一度自分の夢を語りさえします。

ちょうどNHKで「ちゅらさん」が放映されている頃で、
「一風館」で泣いたり笑ったりしながら家族のように暮らす人々を観て
「これだ」と思ってしまったわたしは、
「そんなMLになれたらいいね」と投稿したのです。

管理人でもないわたしがそんな夢を語ること自体、可笑しなことだったような気もしますが、
その想いを受けとめてくれた人が何人かでもいたとするなら、
自分で語った夢を貫けなかったのは、とても申し訳ないことでした。
結局そのMLもわたしは退会してしまったのですから。


会員の出入りが自由なMLに家族のような関係を求めること、
そしてその想いを他の人に押し付けることから間違っていたのですが、
振り返ってみて、MLというものが自分に合わなかったのではないかと思います。
(お気に入りだけ集めてMLをつくるという手もありますが、
 わたしの「お気に入り」がわたしの「お気に入り」の人の「お気に入り」とは限りません。
 それに定着メンバーだけだと、水が澱み、わたしは息苦しくなってしまうでしょう。)


MLが自分に合わなかったと思うのは、

第一に、わたしの感情移入の仕方が異常だからです。
管理人でもないのに、わたしは会員の出入りや投稿される内容に一喜一憂し、
時折それは自分にとってリアルより重たくなってしまいます。

リアルもネットも同じ・・・わたしは最初からそう考えていたので、
「出会った」と思う(これは言ってみればわたしの‘片想い’なのですが)人とは
生涯の友のつもりで丁寧に接してきたつもりです。
でも、それはどうも普通のことではないようです。
わたしの過剰な気持ちは時に相手に負担を与えたりもするのだと思います。


そして第二に、ひとつのMLに長くいると、投稿する常連さんのことが少しずつわかってきて、
そうすると、わたしは何を書いたら良いかわからなくなるのです。

この人にこう書きたいのだけれど、それを読んだらあの人はどう思うだろう?
○○さん、こんなこと言ってるけど、△△さん、気にしないかしら?・・・やっぱりじゃん・・・

そんなことを考えはじめたら、もう駄目です(笑)

でも後にHPをつくり自分の掲示板がMLのようになった時も同じことが起こりました。
リアルでもそうですが、人が何人も集まっている所で
すべての人に気を配りながら上手く付き合うのは難しいことです。


MLで行き詰まり、「やっぱ一対一よね」と思ったわたしは、
メル友を募集することにしました。
ネットをやめることは考えもしませんでした(笑)




***続きます***

ブログまで(3)

そのMLはできたばかりのMLで、紹介文が秀逸だったせいか、
見る見る大所帯になっていきました。
マメな人が多かったので、新来会者はみな温かく迎えられ、
投稿も多く活発なMLでした。

1日数十通来るメールを、わたしは、ほとんど読んでいました。
会員名簿が載せられると印刷し、ひとりひとりのことを知ろうとしました。
(今もどこかにあると思います)
昔からそうですが、変に几帳面なのです。そして、のめりこみやすい(笑)

そのMLには10代から60代の人たちが集い、様々な話題が飛び交っていました。
映画のこと、本のこと、趣味のこと、好きな曲や詩の紹介、等々。
思い出話をする人や悩み事を打ち明ける人もいました。

わたしのような主婦も多かったのですが、
学校や塾の先生、小説を書いている人、離島で暮らしている人学生・・・
個性豊かな人たちが集まっていました。

わたしにはすぐお気に入りができました。
心に響く文章や読ませる文章を書く人がいたのです。
それだけでなく、好きだなぁと思う人も、気にかかる人もいました。

このMLなら、家族みたいな関係になれるんじゃないか。
期待はどんどん膨らんでいきました。

ところが少しすると、言葉で傷つけ合うことも出てきました。
注意されても自分中心な投稿を繰り返す、心の病んだ人もいました。
売り言葉に買い言葉的なやりとりもありました。

言葉だけのやりとりは難しいものです。
投稿する人はそういうつもりで書いていなくても、
受け取る側が別の意味に受け取ることもあります。
問題の渦中にある人は、ほんのささいな言葉に傷ついたりもします。

そんなことが何度かあって、投稿は減っていき、退会する人も出てきました。
そのMLには精神的に弱い人や悩みを抱えた人も多かったのです。
気軽なやりとりだけを望んでいる人にとっては、耐えられないものもあったのでしょう。

わたしは「○○さんが退会した」というお知らせを読んだり
言葉の行き違いで傷ついた人を見るたびに悲しくてなりませんでした。
そのMLはあまりにもわたしの生活と心に入り込み、
わたしの1日はそのML中心に回っていたからです。
リアルよりネットの方がずっと大きな位置を占めていました。

いま振り返ってみると、あれは一体なんだったのだろう?と思うのですが、
わたしはこのMLに入った前後、精神的にとても不安定になっていたのだと思います。

検索してみたらそのMLは小規模ながらまだ存続しているらしいので
詳しいことは書けませんが、その後もがっかりするようなことが続き、
わたしはMLを退会しました。

結局そこにいたのは3ヶ月ほどでした。



***続きます***

ブログまで(2)

検索すると、いろいろなメーリングリスト(ML)が見つかりました。
MLの管理人さんの紹介文を読んで、良さそうなところに会員登録し、
行けそうだと思ったら自己紹介のメールを送ります。

わたしが最初探したのは主に教育関係のMLでした。
(当時はまだ学校という所に少しは期待していたのです)
自分でもPTAに関わっている時期だったので、
様々な人の考え方や教育に対する取り組み等を知りたかったし
若い人の考えも聴きたかったのだと思います。

ちょっと気に入ったMLもありましたが、これだ、と思えるMLには巡り会いませんでした。
むしろがっかりする体験を何度かしました。

教育関係で活発なMLだと、時々意見の衝突が起こり、そうすると、
MLから送られてくるのはある特定の人たちの刺々しい討論のメールだけ、
という状態になるからです。そうなると、他の人は全く口を挟めなくなります。

これは周りのお母さんたちとのやりとりやPTAでも経験したことですが、
教育に対する考え方には、その人の価値観がそのまま表われるものです。
その価値観はその人の生き方に大きく関わっているので
反対意見を言われると、自分を否定されたように感じることが多いのだと思います。


まだ我が家の長男が赤ちゃんで、子育ての仕方が全くわからず
途方に暮れていたとき、わたしは育児書を読み漁りました。
そのとき、小児科医・山田真先生の言葉に出会いました。

「子育てなんて、みんな好きにやればいいんだ
 正しい子育てなんて、あるわけないんだから」

親もいろいろなのだから、子育ての仕方だっていろいろあっていい、
それぞれが自分の考えで育てればいいというのです。
(もちろん、子どもを愛しその人格を尊重するということが基本にあってのことだと思いますが)

気持ちがふっと軽くなりました。
そうだ、育児書の模範通りに子どもが育っていなくても、心配しなくていいんだ・・・。

そう思って自分流に子育てをしてきたわたしは、MLでの意見の衝突に嫌気がさしました。
(いま振り返ってみると、他を認められず、場をわきまえない人たちが語る‘教育’に
 意味を感じられなかったのだと思います。
 議論したければ、MLを通さず、一対一で正々堂々と意見交換すれば良いのです。
 お互いのアドレスはわかっているはずなのですから。)


教育関係のMLと同時にわたしは40代のMLにもいくつか入ってみました。
でもどこも、新しい人が入会し自己紹介をすると、それに対する返信がいくつか来るのですが、
後は軽いメールがポツポツと来るだけです。

NHKで観たような温かい人間関係は経験できませんでした。
MLというものに失望しはじめた頃、わたしはあるMLに出会います。
2000年11月末のことでした。




***続きます***

ブログまで(1)

昨日の続きです。


そもそもわたしが何故ネットを始めたのか、という話から始めようと思います。

こんなにネットに浸かっている今でもそうですが、
わたしはアナログ人間で、5年前までは、
自分がPCを使うようになるなどとは夢にも思いませんでした。

5年前の夏、夫が
「ここだと、女性はただでアドレスがもらえるらしい」と言って
わたしの意見も求めずにあるプロバイダに登録し、ウインドウズのノートパソコンを買ってきました。
ちょうどボーナスが出た頃だったので、家族へのプレゼントのつもりだったのでしょうか。
(彼はマックのデスクトップをもっていました)

え?? なんで??と思いながらも、折角なのでメールだけでも覚えようかと
ちょうど夏休みに入った次男(当時中学生)を先生に
PCとの格闘(笑 でもそんな感じでした)が始まりました。

メールができる目処が立ってきたら、メールを出す相手がほしくなりました。
でも、同世代の友だちにはまだメールをする人はほとんどいず、
相手になってくれるのは弟ぐらいでした。

そんな時、パートナーを亡くしてからの老人の生きがいについての特集が
NHKで放映されていて、それをたまたま観たのです。

その中にPCを生きがいにしているひとりの老婦人が紹介されていました。

その婦人は旦那さんを亡くしてからあまりにも寂しそうだったので
息子さんが見かねてPCをプレゼントしたのだそうです。
婦人はPCの扱い方を覚え、あるメーリングリストに参加します。
そしてそこでたくさん知り合いができ、交流が始まります。
身体の具合が悪いときはそこでアドバイスももらえます。
1日の終わりにメールチェックし、メーリングリストに入っている人たちと
交流するのが、その婦人の支えとなっている、そんなお話でした。

わたしはそれを観て、とても感激しました。
ただの機械だと思っていたけど、PCってそんな使い方もできるんだぁ・・・目から鱗でした。

それからわたしのメーリングリスト探しが始まります。




***続きます***

ネットに書くこと

のんさんとハルヒさんが「ブロガーに50の質問」に答えてくれました。
ありがとうございました(質問への答え、まだまだ募集中!)

他にも何人かの答えを読ませてもらったのですが、
その中に、面白いブログには「自然に出会えている」という人が何人かいて
羨ましく思いました。
わたしの場合は、自分で開拓する気にならないと、なかなか出会えないからです。
(声をかけにくい自分であることについては、いろいろ考えてきました
 たぶんこうだろうという答えも自分で出してはいます
 当たってるかどうかはわかりませんが)

でも、数は多くなくても、お付き合いが始まった人とは
見えない絆のようなものが生まれ、長くお付き合いさせてもらっています。

最近、その人たちに共通点があることに気づきました。
それは、彼らもまた書くことで自分を表現する人たちである、ということ。
彼らもたぶん書くのを生涯やめられない人たちだろう、ということ。

大江健三郎さんが、話して考える人と書いて考える人がいる、
というようなことを言っておられましたが、
わたしにとって書くことは考えることであり、
わたしが長くお付き合いさせてもらっている人たちも、たぶんそうなのです。

(因みに、女はしゃべることで発散しているとよく言われますが、
 しゃべってもわたしは発散することはできず、
 しゃべると、却ってストレスになったりするのです
 ああ、あんなことを言ってしまったと後悔することがよくあるからです
 でも、しゃべるのが嫌いということではありません?この辺が矛盾していますね 笑)
 

わたしにとって、書くことは自分を開いて他者とつながること。
(だから紙ではなくネットに書くのです)

書いていると、ちっぽけな自分に失望することの方が多いのですが、
でも、やっぱり書き続けていこうと思うのです。


余談ですが、ネットに長く書く秘訣は、
書くのが好きというだけでなく、他の人の文章を読むのが好きということだと、
わたしは思っています。

違うかしら?



もう少し書きたいことがあるのですが、それについてはまた。

椅子

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バラバラだから

いいんだよね


いろいろあるから

わたしの椅子も

きっと見つかる

「グッドナイト・ムーン」

久しぶりにビデオを観た。「グッドナイト・ムーン」という映画。
あらすじはこちら


主人公は、ルークの若い恋人イザベルとルークの前妻ジャッキー。
(途中でルークはイザベルにプロポーズし、イザベルはそれを受ける)
ふたりの子ども(アンナとベン)をめぐって女性ふたりは火花を散らす。
しかし、ジャッキーの癌が再発し、それをイザベルが知ることから
ふたりの関係は変わってゆく。

子どもたちに対するジャッキーの愛情と、葛藤が心に沁みた。

(自分は死んでゆくのだから、子どもたちをイザベルに渡さなければならない、
 この、どこの馬の骨ともわからない鼻っ柱の強そうな女に。
 自分がありったけの愛情を注いで育ててきた子どもたちは
 この女の型にはめられてしまうのだわ・・・)

ジャッキーはこんなことを思ったのではないだろうか。
しかし、運命は受け入れなければならない、それならば、
イザベルの良いところも認めていったほうが良いのではないかしら、
そう考えて子どもたちにもそう勧めたところがジャッキーの強さだ。


イザベルは恐れていた、
完璧に見える母親ジャッキーに追いつくことは一生できないだろう、
自分はジャッキーの代わりになんてとてもなれない、
家族はジャッキーを中心に回っているのだから。

イザベルはジャッキーに言う。

  アンナが結婚する時、自分は「世界一綺麗な花嫁よ」と言うだろう、
  でもアンナはきっと思うわ、「ああ、今、お母さんがいてくれたら」って、
  わたしはそれが怖い。

それに対してジャッキーは言う。

  わたしが怖いのは、そう思ってくれないんじゃないかということよ。


自分を産んでくれた母親の代わりなどどこにもいない。
それがたとえ完璧な母親でなくても。

この映画の原題は「STEPMOM」、つまり「継母」。
けれどもイザベルと子どもたちとの関係が好転したのは、
ジャッキーの代わり(つまり母親)になろうとは思わず、
子どもたちの友人になろうとしたから、そして
ジャッキーと子どもたちと一緒の場面では必ず一歩退いていたから、ではないだろうか。


ジャッキーの癌が再発しなければ、ジャッキーとイザベルが心を交わすことも、
ルークとイザベルが友人として付き合うことも、
イザベルと子どもたちが打ち解けることもなかったのだろう。

「離婚」や「死別」という「悪い」ことにも「良い」ことの種は含まれている。
要は、それを探して育てられるかどうか(心を切り替えられるか)
なのかもしれない。


クリスマスの朝、ジャッキーの寝室に来たベンは
プレゼントに大はしゃぎしてから「お母さん、死ぬの?」と訊く。
「寂しい」と言うベンに、ジャッキーは言う。

「死んで身体はなくなっても、お母さんはベンの心の中にいつもいるわ、
 耳を澄ませば、お母さんの声が聞こえるわ、
 それに、夢で会える・・・」


最後の場面は、記念写真を撮るところ。

イザベルがルーク、ジャッキー、子どもたちの写真を撮る、
その後でジャッキーは言う。

「さあ、今度は家族全員で」

その言葉にイザベルははっと、自動シャッターに切り替え、
ジャッキーの隣りで写真に納まった。


ルーク、イザベル、ジャッキー、子どもたちがそれぞれ
心の葛藤に勝利しなければ得られない理想的な結末だった。

秋 準備中

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空はもう秋だね




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お花見しながら

色づくのを待っている

「ブロガーに50の質問」

「ブロガーに50の質問」というのを「うたたねの記」で見つけました。
ひかりさんが配信しているものだそうです。で、わたしも答えてみることにします。
(寝太郎さん、ひかりさん、ありがとう)


***



1 HNとその由来は?

あつこ・・・実名をひらがな表記にしました。


2 ブロガーになったきっかけは?

日記に使っていた「My Prpfile」が「Drecom」になったから
自動的に「日記記者」から「ブロガー」に。


3 それまでに日記とか書いてましたか?

はい。ネットの日記は3年半前から。
普通の日記は小学校高学年の頃と中学時代。その後は三日坊主を繰り返していました。


4 HPは持ってます?ジャンルは?

はい。
ジャンル? う?ん・・・なんだろう? 駄文集積所?


5 ブログの醍醐味は?

思いがけない出会いがあること。


6 ブログ書いてみて新鮮だったことは?

写真が簡単にアップできること。


7 ブログで知り合った人と会ったことある?会ってみたい?

「ブログで」は、ありません。
会うのは恥ずかしいし、しゃべるの、苦手。相手を退屈させそう。
でも、いつか勇気が出たら(出るだろうか??)会いたい人は何人かいます。


8 ところであなたは女性?男性?どちらにお住まいですか?

男性に間違われたことはない。
東京に住んでます。


9 失礼ですが御歳はおいくつくらいでしょうか?

長男が21なので。想像にお任せします。


10 差し支えなければご職業などを・・・

ちょっと差し支えあるのでノーコメント。


11 ご趣味はなんですか?ブログにも書いてますか?

今は読書、お気に入りサイトめぐり、ブログを書くこと、かな。
Profileに載せてます。


12 最近ハマってることってあります?何ですか?

書くことと写真を撮ること。


13 ブログは毎日更新してますか?

はい。自分へのノルマ&目覚ましみたいなもの。


14 お勧めのブログってありますか?

たくさん。
サイドバーに載せている「明日へ」と「日だまりの窓辺」にリンクしています。
(その他にもいくつか)


15 面白いブログはどうやって発掘してる?

お気に入りのブログやHPのリンク先やコメント欄で。


16 あなたのブログはリンクフリーですか?

はい。リンクでどんどんつながっていけたら素敵。


17 リアルの知り合いはあなたのブログを読んでる?

ふたりだけ(それ以外の人には教えていません)


18 ホームページはどこに設定してますか?

楽天


19 ネットショッピング好き?なに買ったことあります?

あまり。
本、コーヒー、それからビタミン剤と化粧品(意外でしょ? 笑)


20 お気に入りのサイトは何件入ってる?

数えたことないけど100くらい。


21 お気に入りのサイトで一番多いジャンルは何?

ブログ


22 メッセンジャーとかやってます?

「メッセンジャーって何?」っていうほど知らない。
チャットみたいなもの? だったら、超苦手。


23 一日のネット接続時間はどれくらい?

結構多い。


24 休みの日って何してますか?

純粋な「休みの日」って、ないけど、
どこかに行こうと自分で決めた日が休みかも。


25 「休みの日何した」とかって結構ブログに書くほうですか?

出かけて何か感じたり写真を撮ったりしたら、書くでしょう。


26 ブログ書いてて嫌な思いしたことはありますか?

アダルト系・出会い系のブログからTBが送られてきたとき。


27 実は最近更新が面倒だったりしませんか?

ネタが・・・と思うことはあっても、面倒、ということはないかも。


28 好きな色は何色?その理由は?

青。自分にいちばんしっくりくる色。


29 普段遊んでるのはどのあたり?(大まかに)

この辺(ほとんど家の中)


30 あなたの「こだわり」は?

自分のカラーを大事にすること。


31 好きなメーカーとかブランドとかあります?

全く。
お店やカタログで見て「これ、大好き!」と思うデザインとかがあるだけ。


32 スポーツチームはどこが好き?

スポーツに興味をもったことはない。


33 どんなPC使ってる?ADSLですか?光?

え?っと・・・DELLの。ADSLみたい。


34 好きなお菓子はなんですか?

柿の種に入っているピーナッツ。


35 回転寿司で一番最初に食べるのは?

決まってません。最後は甘エビ(いちばん好きなネタ)


36 好きなファーストフードはどこのお店?

ミスタードーナッツとかスターバックスとか。


37 おすすめの本・漫画を1冊ずつ教えてください

本は大江健三郎さんの『「自分の木」の下で』。
漫画はくらもちふさこさんと岩館真理子さんが好きだったけど、
最近ほとんど読んでないので。
みんなが知っていそうなのでは「動物のお医者さん」。


38 今日のファッションのポイントは?

さらっと


39 これからどんなブログにしていきたいですか?

気の向くまま(わたしと一緒に変わっていくでしょう)


40 一日に見るほかの人のブログって何個くらい?

10?20かな。
(と言うとすごいけど、短文や詩や写真のブログばかり)


41 あなたのブログのキャッチコピーをどうぞ

「淡々とわたし色を発信」


42 あなたは「何マニア」?

本がないと、とっても困るから、読書マニア?


43 欠かさず買ってるものあります?

特にない。


44 ブログ書いててよかったと思うときは?

コメントや感想をいただいたとき。


45 コメントに荒らしがいっぱい来たらどうしますか?

削除しながら過ぎ去るのを待つ、と思う。


46 明日突然ブログが書けなくなったらどうします? 

HPのbbsにでも書きましょうか(笑)
ネットの日記を書いていないときはそうしていました。


47 お酒好きですか? 特に好きなのは?

飲めない、というより飲もうと思ったことがない。


48 ひとつだけ無人島に持っていけるとしたらなに持ってく?

聖書


49 あなたにとってブログとは?

自分を見つめ、人とつながる手段。


50 最後にひとことどうぞー

ここまで読んでくださった方、「ありがとう。ご苦労さまでした?!」



* 良かったらあなたもやってみてね。ブログに書いたらわたしにもTBしてください。

記憶

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飛翔直前



awayさんの記事「記憶、そして幻の情景」を読んだ。


何度も書いているように、わたしはとても記憶力が乏しい。
例えば、先日写真を紹介した美ヶ原に初めて行ったのは子どもの頃。
何故覚えているかというと、実家のアルバムにその時の写真があるからだ。
何を見たか、どんなことがあったかは覚えていない。

ただひとつ覚えていることがある。

美ヶ原にはそのとき東京から来た伯父の車に乗せてもらって行ったのだが
(我が家には父の仕事用の小型トラックがあるだけで、自家用車はなかった)
ちょうどお盆ということもあって、道がものすごく渋滞していた。
その時の伯父がイライラした感情が伝わってきたのを覚えている。


記憶力の乏しいわたしでも、覚えていることはある
(awayさんが書かれているように「忘れられない」ことはある)。
普段は忘れていても、ふと記憶がよみがえる瞬間もある。

数年前にネットに日記を書きはじめてから、時々幼い頃の記憶を綴っている。
(おぼろげな記憶を脚色してしまってはいるが)
そのことで前より自分のことがわかるようになってきた。

すっかり大人になったと思っていた自分の中に
子どもの頃の自分がどうしようもなく居ることもわかってきた。
(そしてそれがとても大事な自分であることも)


思い出の中の情景であれ、誰かの言葉であれ、
そのとき沸き起こった感情であれ、自分を形作っているのはもしかしたら、
記憶の中にある「忘れられないこと」たちなのかもしれない。
それらは何かあるたびによみがえってきてはわたしに語りかけ
戒め温め導いてくれる。


それにしても・・・
大学時代、毎週のように会っていた人のことをほとんど覚えていないわたしって、どうよ?
わたしの記憶のデータベースである夫がいなくなったら
わたしの過去の半分以上はなくなっちゃうのかも。



* awayさんの「風の歌が聞こえますか」にTBさせていただきます。
 awayさんのような「幻の情景」、あなたにもありますか。

夏を見送る

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